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小説「僕は落ちこぼれ商社マン」はこちら



  第3部 アルツハイマーの母 (認知症)

 {1} 語尾に「ありがと」やがてオウム返し

1989年1月 昭和天皇がお亡くなりになり昭和63年は、1月だけで新年号は「平成」となった。
母も数え年で云えば 76歳だ。
気丈な母ゆえ 「 我孫子(千葉県我孫子市)へ来るか」と言えば「まだまだ一人で金沢に居るわいね」と云うだろうが いつまでも一人にしておくわけには行かない。
心配で 時々電話をかけると 声の調子は明るいが 何か間延びした受け答えで 母の方からの問いかけは、殆どなくなっている。 でも終わりには必ず「ありがと ありがと ありがと(ありがとう ではない)」と繰り返しが付くようになった。
多分 妹の静子あたりに「年寄りは、皆から好かれるようにならなければイケナイ。バーちやんも好かれるように 言葉の終わり<ありがとう>と言いなさいよ」とでも入れ知恵されたのだろう。

私の子供は、女一人 男一人共に大学を卒業 今は、社会人となっている。
今の住まいは、母と同居するにはやや小さい。庭いじりの好きな母の為にも もっと広い庭のある家に移りたい。 そんな想いでいた平成元年6月の或る日 新聞の折込チラシに 同じ我孫子市の下ヶ戸(さげと)というところに 67坪の土地、延べ43坪の建物(築11年)がオープンハウスしているのが眼に入った。
北側だが8Mの大通りに面し、JR天王台駅から徒歩10分 東我孫子駅から2分と交通至便 高台で大地震があっても大丈夫そうだ。ただ値段が8800万円とあり、これに手数料や諸税諸費用を入れれば9500万円にはなるだろう。
今住んでいる家を下取りか転売しても4000〜4500万円不足する。無理な話かもしれない。 まあ見るだけみてくるか。
妻に云ったところ「一緒に見に行く」と言う。これまでオープンハウスが、何であるかも知らない二人であったが、その場で見にいった。
国道356号線から50Mしか離れていないが、第1種住居専用地域で意外に静かだ。そして何よりも南面が畑で見通しが良い。広く明るい庭だ。建物は、確か に10年前のものだが 殆どの部屋が南向き 柱は太く しっかりした造りだ。電気器具を始めリハウスしてあった。
母が住むなら1階の縁側付き8畳の座敷だろう。
一見しただけで すっかり気に入った。妻も気に入ったようだ。
かなり沢山の人が見に来ており、下取りの相談などしていた。
その夜 N不動産の宅建主任者の方に、高野山の家(手賀沼のすぐそば)を見てもらい資金相談に入る。
下取り5000万円 勤務先(I商事)からの社内住宅再融資2500万円 D銀行融資1000万円としても 未だ1000万円不足する。
「同居を条件と言っては何だけど 母に1000万円借金の申し入れをしてみるかーーと言うことになった。 

おおよその目安を立てて 翌日から打診に入る。
勤務先、D銀行共にOKとのこと 早速母に電話をいれる。
「母さん 元気か」 「元気か」 「元気かでなくげんきや やろ」
「元気かでなく元気やーー」 「どうしたんやね」 「どうしたんやね」 「何をオウム返しばかり云うとるがいね」 「何をオウムーー」
その後 母の方も何かハッとした感じで普通の電話に戻った が こみいった話ができる状態ではなかった。
引き続き妹に電話する。 「あぁ お母さん 時々あんなことあるけど たいしたことないわいね」  「1000万円 お母さんから出させ お兄さんとこに 同居する話 私も賛成や お母さんに出させるよう話するさかいに 新しい家を買うが 安心して進めまっしね」  新しい家の方は、何かの縁が働いたのかト ントン拍子で話がすすんだ。 下取りもヒモ付き転売とかで 売主の取引先の不動産会社が、5300万円で買ってくれた。
8月25日大量の荷物の為2日がかりの引越しとなったが 無事終え新しい家へ引き移った。

1

 [2] バァちやん お金持ちやがいネ

これより少し前(6月下旬) 私は、資金のこともあって 金沢へ行き母の家に泊まった。
母の様子が 動作が少し緩慢で 口数が少なかったが、年のせいかと余り気に止めなかった。
夕食には、私の好物ばかり揃えてあった。タラコの煮詰めたもの・タケノコとフキの煮物・ナスの一塩漬物そしてジャガイモのお汁
ーーしかし一寸おかしい。
「母さん このお汁 何やいね」 「どうした」 「くどいがいね」 「ほうか」 「いつもの味とは 大分ちごうぞいね」 「????」 いつもの 所謂お ふくろの味とは、3倍以上も塩辛い。味噌をしっかり入れてあり 本人は、味見してもわからない感じであった。

翌朝 弟にも立ち会ってもらい 母の預貯金調べをした。
茶ダンスの引き出しから、輪ゴムでとめた預貯金通帳の束とハンコ(実印)を無造作に持って来た。
今まで 預貯金の管理は、母が一人でやっており 私達兄弟は、見たこともなかった。繰越済みの古い通帳もあったが 郵便貯金・地元銀行やD都市銀行の預金通帳等があった。
父の恩給が年4回 計約190万円 母の厚生年金が年6回90万円 これが母の収入の殆どであった。公金が入る毎 大半を預金 一定額を積み立てのように して、定期や定額預貯金にしていた。 郵便局や銀行で 利息計算してもらったら元利合計 1600万円位になつた。
「バアちやん お金持ちやがいね」と弟がいった。その声で テレビを見ていた母が、こちらに顔を向け いくらあったとも聞かず ニコッと笑っただけだった。
お金のことに無関心になっていた。
あんなにガメつく ケチって貯めてきたのに 孫へのお小使いも
殆ど渡さなかったのに お金は無い無いと言ってきたのに (もっとも冠婚葬祭を始め出すべき時には 人並み以上のお金をポンと出していた)
私と同居して お金の管理はもういらないという理由からでは無い 本当にお金に執着が無くなったようだった



 {3} ボケたバァちやん一人置いて 火事でも出されたら 近所    迷惑や

平成元年7月初め 私が仕事を終えて会社から帰るとすぐ 妻が「金沢の姉から電話があった」といった。 「アそう 何やて」 「野々市のK子さん(妻の兄 嫁)の実家の方から聞いた話やけど 水上のオバァちやん ボケがかなり進んでいるみたい。それで近所の人や民生委員の人が、だいぶ心配しておいでるらし い」 「???!!?」  「オバアちやん 何かしらーーーゴミやダンボールの箱を、部屋や廊下に一杯 山のように積んでおいでる。火事でも出されたら 近所迷惑や 何でも <東 京へ行って 長男と一緒に住むがや>と言っておいでるけど それまで一人にしておいて いいがかいね。 金沢には他に子供さんおいでんがやろうかーーーと いうよーな内容でした」
「この間 おふくろのところで泊まった時は、そんなにボケているとは思えなんだがなぁ  いずれにせよこの秋か年末までには、この家で同居せんといかんなぁー」
「ついでに 姉から<あんたかって いつかわ壮ちやん(息子)の
お嫁さんの世話になることになる。ほーやから オバァちやん はよう引取って お世話するまっし>と言われた」 「 結婚してやがて 28年 いっぺんも 一緒に住んだことのない<嫁と姑> 嫌やろうけどーーー1000万円出してもらっとることもあるシーーーまぁ宜しく頼むわ」 妻は、諦めともため息とも思 える複雑な顔をしていた。
その日の夜は 私もアレコレ考え 遅くなってしまった。
翌早朝 妹の静子に電話を入れ一部始終をはなした。
「そんなにボケとるとは 思わんけど?ー今日は丁度 夫もとあん(敏夫兄)も休みやし 見にいかすーー」 「ほんなら頼むわ」
と私は、電話を切り会社へ行った。仕事中も何かと気になっていた。 夜 妹の夫である隆さんから電話が来た。
「お母さんの具合やけど 別に悪いことないわ。そやけど近所の人が不安がる以上 放っておけん。皆ではなしあい納得ずくで
お母さんを吉金で引取ることにし もう連れてきた。冷蔵庫の電気まで止めて来たわ。静子の都合の悪い時とか何かの時は、敏
兄のところに行ってもらうことにしたさけ 一応安心してたい」
思わず涙が出そうになるほど うれしい内容であった。戦死した
父のお導きか 最善の方法が皆の合意の下にとられた 実にありがたいことだ。
「私しや一人でいるのが気楽や。なアーん元気なうちは、お前らの世話にはならん」と強がっていた母も 本当は淋しかったのだろう。 「ほんなら静子のとこへ行くわ」と身の回りの物を風呂敷に包んで引き移ったとのこと 実の娘のところで暫くの間の同居
これで火の心配も、食事の心配もいらない。
その後 私は、妻の姉さんに報告とお礼の電話をいれた。「それは良かった」と非常に喜んでもらい安心してもらった。



 {4} 妻の提案 深慮遠謀か

母を引取り同居するにあたり 私の妻より提案と言うか条件が出された。 即ち「お母さんには3人の子供がいる。なにも長男だからといって引取らなけねばな らないことはない。本来なら3人の子供が平等に面倒みるべきである。今回いろんなことから我々が、引取ることになったが それならせめて敏夫さんのとこで 2ヶ月
静子さんのとこで2ヶ月引取り一緒に生活して面倒みて欲しい。
逆に言えば 2ヶ月ではあるが身近で親孝行できることにもなる」
と言うものであった。 
「弟のとこは、離婚して嫁さんは居ない。 長女夫婦と同居中だが 孫がこの6月に生まれたばかりやし とても無理や 又妹は嫁に行ったもんや いくら実の娘のとこが良いというてもーーー」
とは言ったものの 妻にも何か考えもあるのだろう とこの提案を
弟妹につたえた。
我孫子の新居に引き越しして 荷物の整理・片付けに大わらわの8月の末 妹から電話があった。 「お母さん 早く我孫子へ連れて行ってもらえないか。  1ヶ月交替ということでお母さんを、敏兄んのところに預けたがやけど 2週間も経たんがに もてあまして 私んところに引取れと言う  仕方がないので又 お母さんを連れ戻してきた。でも私んとこも夫の隆が 胃潰瘍で胃を2/3手術して入院中やし 大変なんやーー」 「そりゃあ できるだけ早く引取るように するけど まだ引き越し荷物の後片付けで ごったがえしている。とにかく 大変やろうけど今暫く預かっておいてくれ」
その日の私の日記には、次のように書いた。<何ちゅうこつちゃあ 実の親子なのに 母が何か悪い事したわけでなし 少しボケて 少しお漏らしをし 少々老 人特有の臭いがあると言うだけやないか。 母のお金の中からやけど ちゃんと母の生活費 それも決して安くはない額を払っていると言うのにーーーこっちは 10月から一生同居して面倒みることになるのに 何が1ヶ月だ 何が2週間だーーーバカヤロウー>
そして 2ヵ月程前の妻の提案を思い出した。 あいつは、このことを予感して あんな提案をしたのかーーボケ老人との同居がどういうものかを、弟や妹に実体験させーー今後死ぬまで同居する
我々の気持ちを、少しでも理解させようとしたのだろうかーーーとすれば 凄い深慮遠謀だ。


 {5} 想い出があるがやけど

妹の夫・隆さんの胃の手術は、上手く行き心配された胃癌でもなかった。 経過も良く 約1ヵ月後 無事退院できた。
妹の家から母の家までおよそ1.5Km離れている。 この道のりを
母は、1時間以上かけて往復し 我孫子へ行く為の荷物整理をするのが仕事であった。
母は、27坪の平屋建てに一人で住んでいた。父と結婚後55年 3人の子供を育て上げ 家財と言うか ガラクタと言うべきか品物が一杯あった。これまでは ,これらがキチッと整理され収納部屋に棚積みされていた。そして訪れる人達に、タンス類が全て納まっている部屋を見せ、その他の部屋は、広々と又すっきりしているのを自慢するかのようであった。
私は、会社の出張で金沢へ行った時 一日休みを取り 母の荷物整理を手伝った。 そして驚いた。タンスや箱の中身 押入れの中の物等を、整理区分けするこ となく一纏めにし 風呂敷に包み 一寸大きめの物はシーツに包み 短い紐を何本も継ぎ足して長い一本の紐とし 縦横無尽に紐掛けしてある。
「古い物、要らない物は捨てなさい」と言ってあるのに 何も捨てた形跡がない。これらが、南向きの縁側に それこそ 山積みにされている。
これを見た近所の人や民生委員の方が、心配して電話をして来られたんだと了解する。
風呂敷包みやシーツ包みを一つずつ開き 捨てるものと そうでないものとに区分して行く。 弟も来て手伝ってくれた。
「これ要らない これ捨てる」とクリーンセンター行きのゴミの山に品物を区別して行くと それを見た母の顔が、なんとも寂しげで うつろな感じであった。
「これ 要るか?」と問い返事がないので、ゴミの山の方にポイとすてる。 暫くして 母がゴミの山へ行き 2つ3つ手に抱えて持ってきて、風呂敷に包んでいる。 <あぁ あれは捨てれんがゃなぁ
ー>と黙って母のするとおりにさせる。
荷物が次々と整理・区分されて 縁側の竹の床が見えてくると 何か黒い物が列を作っている。 「蟻だ。 オャ 変な虫も居る」
箒で掃きだす。
押入れに布団が、 かれこれ10組もある。 どれもこれも古い昔の布団で真綿が詰まった重いものだ。変な臭いもする。
比較的新しいもの2組を残しあとは捨てようとすると 母が、泣きそうな顔をする。 「バアちやん 我孫子の家のバアちやんの部屋は、1階の座敷で縁側付き で8畳の広さがあるけど こんな沢山 荷物持って行けんがや」 「!!????想い出があるがやけどーー」と母が小さな声でボソッと言った。
その後は、泣きそうな顔も忘れてしまっていた。



 {6} 我孫子の家へ /長男と同居

平成元年10月25日 運送会社の方が4人来て 朝9時からの引越荷物の積込みが終わったのが11時。 クリーン・センター行きゴミが、トラック1台分  我孫子行き荷物が、トラック1台分もあった。 その後掃除をした。 何も無くなってガランとした8畳の座敷に母と、私と私の妻そして弟の4人が ペタンと 腰を下ろし 近くのスーパーから買ってきたオニギリとお茶でお昼を食べた。
穏かな快晴の陽射しの下 芽を持ち始めた菊の花や植木の緑が
そよ風になびいて 母にサヨウナラを言っているみたいだった。

「バアちやん この家よく見とくまっしね この家すぐ襖や障子の張替え・タタミの表替えをして賃貸に出すことになっているさかい ヒョットすると これが最後かもしれんさかいね」と私が言った。
わかっているのか どうなのか 母は、一生懸命オニギリを食べている。 最近めっきり無口になった。 そういえば今日は、まだ一言も喋っていないみたいだ。
夕方の汽車時間まで2時間ほどあったので 弟の個人タクシーで
送ってもらい 兼六公園へいった。
最盛期には少し早かったが 霞ヶ池の紅葉は、きれいだった。
「バアやん 兼六公園やぞ 見納めかもしれんさかい よく見とくまっしね」 米泉の家で言ったと同じことを ここでも言ってしまった。 感慨深げな様子もなく 相も変わらず無口で ただ私と妻の後に歩いて付いて来るだけだ。

長野経由上野行き特急「白山」の右側座席に母と妻がが並び左側に私が座った。
母は、相変わらず 一言も喋らない。一生懸命窓から外の景色を見ているだけだ。途中 お漏らしをしないようにと妻が、トイレへ連れていった。
私は、母がボケているとは思いたくなかった。でも 現実は それを認めざるを得なかった。
<さて これからが大変だーー女房殿 よろしく頼むよーー>と心の中で手を合わす。 しかし 何と言っても私のオフクロだ 私自身が面倒みなければーー。

こうして 母は我孫子の家に来た。
母(75歳)私(51歳)妻(51歳)長女(25歳)長男(22歳)の5人家族の同居が始まった。



 [7]  毎週2500円のお小使い

我孫子に到着した母の荷物トラック1台分は、やはり多過ぎた。
金沢であんなに捨ててきたのにーー我孫子でも1/3位がクリーンセンター行きとなった。
一週間位かけ残りの物を整理・再配置して ようやく一階の座敷も母の部屋らしくなった。
以前のように読経の声は聞こえないが 朝晩 仏壇のお鈴をたたく音が聞こえ出した。
我孫子に来ての第一声は、(庭を見て)「広いねー」であった。
南側の裏庭は、35坪(奥行き5間)あり金沢の3倍はある。更に
庭のブロック塀の先は、畑。 その先は、国道356号線(成田街道)。そしてJR成田線の向こうに 名門ゴルフ場<我孫子カントリー>の緑の森が展望できた
母は、四六時中 夜でも その庭に出ていた。そして横の鉄扉を開け前の駐車場を通って北側の大通りへ出、近くを散歩した。
国道356号線及び国道6号線に通ずるバス通りは、車が多いので避け 比較的車の少ない散歩道を妻が母に教え、2・3回は心配して 見え隠れについてまわった。 しかるに母の行動半径は、日毎に広がっていった。
お小遣いは、毎週2500円と決め 1000円札2枚と500円玉1枚を月曜日にわたした。
いつも やや前かがみで散歩しているので杖が要ると思い、伸縮自在アルミ製の軽いそして一寸かっこ良いものを買い母に渡した。しかし  この杖を母は、最後まで使わなかった。
ハンドバックと一緒に左手にかけて 吊るし下げるだけだった。
そして背筋を真っ直ぐ伸ばし 以前のように前かがみでなくなったのには驚いた。 <私は、まだまだ杖のお世話にや なりません>というつもりかなーーそれ にしてはチャンとハンドバックと杖を持って行く。 その杖の握り手の下に水上の印を押し電話番号を書いた小さな紙切れを、ビニールテープで貼り付けた。

まだ1週間経たないのに「金くれ」と母が私に言う。
「金くれ でわなく お金ちょうだい やろ」 「お金ちょうだい」 「まだ1週間にもならんがに 何に使うたがや 財布見せまっし」 ハンドバックの中から一寸大きめの財布を取り出し 私に差し出す。小銭が沢山ある。レシートが何枚も出てくる。
「バアちゃん 小銭ばっかりやけど まだ500円以上あるがいね
あれっ このレシート 天王台駅前のMスーパーや 歩いて10分以上のとこやーーアアッ この店 国道と更に成田線を渡った東
我孫子駅前のK商店や」 危ないからと教えなかった道を渡ったり通ったりして歩いていた。 妻に対し「しっかり見といてくれよ
交通事故におうたらたいへんや」  「おとといのことです。電話があって 東我孫子の交差点に行ったら 女子中学生二人とオバアちゃんが居た。中学生の話によると オバアちゃんが赤信号な のに手を上げて横断歩道を渡ろうとしている 危ないので引き止めた。杖に電話番号が書いてあったので電話したとのことーーお礼を言ってオバアちゃんを連れ 戻したーー私だっていつもいつも
オバアちゃんのこと見ておれません。金沢の敏夫さんや静子さんにも よく言っといて下さい。オバアちゃん 交通事故に遭っても
私 責任持てません」  「何ォツ」と言いたかったが 妻がだんだん興奮してくるのがわかり グッと息を呑んだ。
「それにしても バアちゃん 何を買うとるがやーー」母に言ったのに妻が答えた「食べるもんばっかりや」  「3度の食事で足らんがかなー」  「ちゃん と差し上げてます」 妻の態度がキッとなった。 バアちゃん 他に何の楽しみもない 食べることだけやしムリもないかもしれんーー」 私は、言葉を濁し た。



 [8] 2Kmの散歩道

11月の中旬 母がいつもの散歩から帰ってきた。 小さなきれいな菊の花を いっぱい束にして持っていたそうだ。
「ワザワザ おバアちゃんにお花をくれる人がいるとは 思えない。きっと 黙って取って来たのに違いない。 さて どこからかしら? お菓子箱持って お詫びに行かなければーー」と妻が気を回している。

その週の土曜休みの日 私は、母の散歩道をつきとめようと決め ショルダーバックに飲み物・お菓子の類も詰めた。 3時間でも4時間でも 黙って母の後か ら付いて行ってやるぞ と心に決めた。 「バアちやん 今日は天気も良いし 俺をバアちゃんの散歩に連れて行ってくれよ」 「???」 ホオッ!という よーな顔をしたが すぐ黙って ハンドバックと杖を取り 普段着のまま庭に出ようとする。 縁側から庭に下りるのに 踏み石として上面が平たい丸い自然石 が置いてあるが 25cmずつ2段で高低差が50cm
以上はある。 母は、両手で戸袋に掴まりながら 緩慢な動作で庭に下りようとする。 <ヨウーし 明日の日曜日 DIYの店へ行き この戸袋と1階トイレの便座横に鉄パイプの手摺りを 日曜大工で作ってあげよう>と私は、手帳にメモをした。
母は、庭に下りてから ビニール製の靴を履こうとするが うまく入らない カガトを入れることができなくて そのまま草履のように引きずって 外へ出ようとする。 しかたがないので これは私が
手伝ってチャンと履かせた。
ギギーッ と庭と車庫の境にある鉄の扉が、きしった。 さあ 出発だ。
母は、家の前の大通りを西に向かって ゆっくりと歩いてゆく。
例によって ハンドバックと杖を左手に吊るし 背筋をピーンと伸ばしている。 私は、3〜5M後をついて行く。
バス通りを渡るかと思ったが 渡らず左折して歩道を行く。
あっちを見たり こっちを見たり 時々立ち止まったりだ。
国道356号線の交差点にきた。この間 女子中学生が心配してくれたところだ。 どうするかなー  アアーッ右手を高く上げて白い
横断歩道を渡ろうとする  まだ赤信号だというのに  あわてて私は、母の手をとり引き戻し 緑になってから 手を引っ張って渡った。
道幅は広くはないが 老人のゆっくりした歩きでは 信号の変わらない内に渡り切るのは無理かもしれない。 これまで無事故なのは きっと 運転手さんが、イライラしながら 又或る時はビックリしながら ジッと母が渡り切るのを待ってくださったに違いない。
交差点を渡ると 真っ直ぐJR東我孫子駅の方へ歩いて行く。
ここは、首都圏では珍しい無人駅である。 プラットホームの西よりに柵があり 人と自転車だけが線路を渡ることができるようになっている。
相も変わらず 母は、ゆっくりした足取りで あっちを見たり こっちを見ながらここをわたってゆく。
オオーッ この間母の財布にあったレシートのKという名のミニスーパーが あるある。
今日は私がいるせいか そこには立ち寄らず 右よりの道を更に西へむかう。 この道を 道なりに250M程西へ行くと 先程の国道と交差する。 母は、この国道の歩道を こんどは東向きに戻り始めた。 この国道とJR成田線が立体交差している。 国道が
ゆるやかに上がり やがて下がる。 この上がりの途中で 母が右や左を見ている。 どうやら反対側へ渡るらしい。 車が来ないのを確認して 渡りはじめた。 今度は横断歩道の白い線は無い
 右手を上げることもしなかった。 <オヤ オヤ お袋さん ボケているようでボケていない しっかりしとるでわないか>ゆっくりなので渡り切るまで時間がかかるが、車が来ても見透視が良いから 車の方が止まってくれそうだ。
立体交差の頂上というか 峠というか 陸橋は、「富士見橋」といい たまにだが富士山が見える眺望の良いところだ。
「バアちゃん 一休みするか」 水筒からお茶を出し手渡すと 黙って一息に呑みほしオイシそうな顔をし ニコッと笑った。 又休むことなくスタスタと歩き始め 最初の交差点のところを左に曲がった。 バス通りだ。 このバス通りの歩道を北に向かって ゆっくりゆっくり歩いて行く。 途中の信号では どうしても私が前を行き
手を引くことになる。
この通りは、JR常磐線と立体交差して やがて国道6号線(水戸街道)につながる。 この立体交差陸橋のアップダウンもあっちを見たりこっちを見たり ゆっくりゆっくり歩いて行く。
陸橋を下がった最初の信号で ちょっと思いついて「バアちゃん 
俺 道わからんようになってしもうた 家 どの方向にあったがいね」と尋ねてみた。 そしたら母は、左手に吊り下げていた杖をそのまま左手に持って 方向を指し示した。 オオッ!その方向はまぎれもなく私達の家の方向であった。
母は、何もしゃべらないが よくわかっとるワイ オウム返しから
失語症になっただけかもしれん。
母は、次の信号の無い交差点を左に曲がった。 そこからはモダンな中級の一戸建てが並んでいる。シャレた門塀があり表札が出ている。 小さな声だが 母が 何か喋っている。 後ろから近ずいてみて驚いた。 母が表札を読んでいるのだ。 「コンドーーースズキーーヤマモトーー」間違いなく発音している。 右に 右にと曲がり10軒以上も読んでから 先程のバス通りを我が家の方に帰り始めた。
失語症かと思ったが 違った。 ちゃんと表札読んで発音練習しているみたいだ。
そう言えば 妻が「オバアちゃん 時々 読売新聞 見ておられる」と言っていたが ひょっとすると 決してボケなんかではない のではないか。イヤ イヤ 有難いことだ。 私は、内心本当にうれしかった。
母は、バス通りを南へ戻る。 陸橋をアップダウンして2っ目の交差点を左に曲がる。そして1っ目の交差点を右にまがる。 ウンウン 正確に我が家に近ずいている。
家迄100m位の旧家と言うか 大きな家の板塀の前で、急に母が止まった。そして ジーッと見ているのは オオーッ 先日母が持ち帰った小菊の花束ーーその小菊の植栽ではないか。
自然に生えたものではなく 旧家の方が板塀の下に植えられたものに違いない。 母は、高砂大学で 大輪の菊作りを教えてもらったらしいが どうやら菊の花が好きとみえる。
今度は採らず まっすぐ家に帰った。
朝10時スタート 昼1時帰着 3時間 距離にして約2kmの大遠足であった。 私の方は、疲労困憊であった。
その日の夕方 妻は、菓子箱を買いあの菊の家に お詫びに行った。

 


 [9] 毎週 母子の名所旧跡巡り

私達が住んだ我孫子市は、千葉県の北西部・都心から約35km
に位置し北を利根川に 南を手賀沼に挟まれた東西に細長い台地状の緑と水の美しい街である。
大正期を中心に北の鎌倉と云われ 志賀 直哉・武者小路 実篤.・杉村 楚人冠・バーナード リーチ等の文人が住んだ文化の香り高い所である。
JR上野駅から常磐線快速で約35分と比較的に近く、スーパーもいくつもある非常に生活に便利な街で、私達が始めて住んだ昭和47年に47000人であった人口も この頃は120000人を超えていた。
我孫子といえば「手賀沼」と言われるほど、手賀沼が有名だ。
最初に移り住んだ高野山3-は、まさしく手賀沼を埋め立てた沼のほとりであったので 手賀沼の四季・朝・昼・夕とその詩情豊かさを満喫した。
何といっても素晴らしいのは、夕焼けだ。 落日が手賀沼を金色に染める。 やがて陽が落ち 真っ赤と金色の空と湖面が富士山の黒い影をクッキリと浮かび上がらせる。
心臓が止まるのではないかと思えるほど強い感動の一瞬である。
こんな素晴らしい夕日は、冬に多い。しかし多いといっても 年に十指を余すだろう。
この手賀沼は、手賀沼公園・水生植物園・鳥の博物館・前述文人達の住居跡・や碑そして古墳群・神社仏閣・我孫子カントリイがあり緑の遊歩道が繋いでいる。
私は、母をドライブがてら よく連れて行った。
母は、非常に喜び 景色を食い入る様に見つめ 時には<きれいやねー>と声をだした。
我孫子の周辺・千葉県・茨城県・東京都にかけて有名無名 大小取り混ぜて名所旧跡・美しい所・良い所が沢山ある。
私の会社が、週休2日制・祝祭日は暦どうり休日・年末年始休暇の他有給休暇も20日以上と年に140日も休みを貰えたので、毎週のように母を連れてドライブや日帰りの小旅行をした。
我孫子の近郊には、新四国相馬霊場があり 又坂東33ヶ寺観音霊場の幾つかもある。
私は、妻と時々これらの寺めぐりをしながらドライブやハイキングをしていた。母が来てからは 妻は一切同行しなくなった。
毎日毎日 それも四六時中顔を合わしたくわないだろうと気を回し 雨降りや寒い日等少々お天気が悪くても<大人のオシメ・紙オムツ>を2組持って 母を家の外へ連れ出した。
お弁当やお茶を買い 目的地の戸外で又車の中でこれらを食べるのは、楽しいものだ。
母も時折「ひろいねー」 「あかるいねー」と言葉を発し喜んでいたが、私の方がもう一つうれしく楽しんでいたのかもしれない。


 [10] テーブル一面にごはん粒

我が家の食事は、10畳大の台所付き食堂・いわゆるDKで採る。
私の食事は、永年の習慣で だいたい朝はパン食 昼はラーメン夜は妻の手料理とビール(ごはんは無し)となっている。
そんなことで 母も、朝は食パン(2切れ) 昼は麺類 夜はごはんと妻の手料理というスタイルが固定してきた。
夕食で家族5人が揃うことは稀であるが、揃ったとしても 私は、居間で大型テレビを観ながらビールを飲む 息子の壮一は、2階の自室に持ち込んで食事することが多い。
「バアちゃん ごはんだよー」と妻か私が母の部屋に声をかけるとすぐ食堂に顔を出し 「いただきます」の挨拶もなしに黙って食べ始める。  ゆっくりだが 実においしそうに食べる。 「まずい」とかアレコレ食事に注文をつけたことは、一度もない。
もっとも自分の妻のことを言うのは面映いが 妻の手料理は、実に美味しい。いろんな材料を安く買ってきて 見事に料理する。文句のつけようがない。
ないとはおもうが 母の場合 失語症に近いのが原因で、注文すら言えなかったのではなかったろうか?。
母は、食事が済むと 自分の食器だけを持って 台所の二槽のシンクの内左側を自分の専用としているらしく 決まって左のシンクで水洗いをした。自分専用の 食器カゴに入れ水切りした後、「ごちそうさま」の挨拶もなく 黙って自分の部屋に戻り テレビを観る。 DKにもテレビがあるのだが。
もっとも 我孫子に来て暫くの間は DKでの食事が終わると 私が食事をしている居間のソファーの横に座り テレビや新聞の夕刊を観るというより眺めるような仕草をしていたこともあった。
この夕食中のこと 母が、何かにムセたかのように 急にセキこんで次の瞬間 プーと 口の中のモノを吹き飛ばした。 テーブル一面にゴハン粒や噛みくだい た食べ物が飛び散っている。2M以上飛んでいる凄い奴もいる。妻や長女の茶碗やお皿の上にも飛び散っている。
「ばあちゃん 手をあてな ダメやがいね」と私がいうと 又セキこみながら 何か怯えたような顔をした。 次に まわりに飛び散ったゴハン粒や食べかすを手で摘まみ 口に運んでいる。
こんなことが、2日に1回となり やがて毎日となった。
遂に バアちゃんは 自分の部屋で食事をすることになった。
妻が食事を運び 母は、入り口横の固定襖前の小さなテーブルに正座して食事をする。
しかし 一人になっても 毎回食事中にむせかえり、口中の物を吹き飛ばしていた。 拾い忘れたり取り残された食べカスが、畳や襖に付いて変色していた。
私は、母の喉か食道に何か病変でもあるのかと思いG大病院に行った折 お医者さんに調べて貰ったが 何も異常は無いとのことだった。尚 解剖所見でも異常は無かった。
老人になると身体に異常が無くても 人によっては 母のように
ムセかえり食べ物を吹き飛ばすようになるのだろうか。

後にわかつたことだが 加齢と共に食道の声帯が痩せてきて飲食物が、食道でなく気道に入ったりすると 母のようになるらしい。

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