{11} 真夜中の闖入者 その年の12月中旬 ドーン ピシャという変な音で目が覚めた。 一寸間をおいてドーン ピチャが、繰り返される。 どうやら 私の寝ている部屋の下の方 母の部屋の方から らしい。何事かと中折れ階段を降りて行ってみた。 母が薄明かりの豆球の下 床柱のところに立つて 押入れの襖を開けたり閉めたりしていた。 結構力を入れているらしくドーン ピシャと強い音がしていた。 「バアちゃん こんな夜中に 何をしとるがいね 目覚めてしもうたがいね 近所迷惑や サア布団に入って 風邪引くぞ サア寝まっし 寝まっし 」 私の顔を見て安心したのか 疲れて眠ってしまったのか その夜は、それはそれで何事もなかった。 しかし この行為は、三日おきぐらいに半月続いた。 遂には 戸や襖・障子の類は、自由に開け閉めできないように されてしまった。(我が女房殿によって) つっかい棒を襖の敷居に置くとか差込鍵を取り付けるといった実に簡単な方法である。幼稚園児でも自分ではずせると思うのだが 母には、気がつかず有効で あった。 そう云えば 玄関の内かぎを ひねって開錠することは出来たが 鎖をはずすことは、何度も教えたにも拘わらず 最後まではずせなかった。 ドーン ピシャの夜から2日経った真夜中のことである。私の部屋のドアが力まかせに引っ張られ バキッとドアの取っ手が壊されるような大きな音がして 目がさめた。床に入ったまま 何事かとドアの方を見ると 黒い大きな影がゆっくりと 入ってくる。 <スワ泥棒か>と豆球の明かりに透かしてみる。<オヤッお袋じやないか> 私は、布団をハネ上げ立ち上がる。 「バアちゃん どうした」 「-----」 なにも云わない。 「こんな夜中に びっくりするがいね。 それにうちの階段は狭く折れ曲がっている 手摺りもない。 危ないから二階へ上がって来てはダメと云うといたやろう。 なんで上がってきたんや?」 「---孝子さんとこ いくまさんな--」 「????!!?」 妻は、唯一 北西に面した6畳の和室に寝ていた。 私は父親に似ているとよく言われる。< オヤジと間違えたのか いや そんなことはない それじや嫉妬か> どうやら いずれにせよ理屈ではなさそうだ。 「バアちやん 下へ降りて自分の部屋で寝なさい。 2階へ上がってきては ダメだぞー」 私が先に降りて 母が足を踏みはずせば 抱き止めれる態勢にしていると、母は両側の板張り壁に 両手を突っ張り ゆっくり ゆっくり降りて来る。 今は階段灯を点けて明るいが 真っ暗な中どうやって昇って来たものか。 母の部屋に連れて行き 布団の中に入れ「サァ 寝るがやぞー おやすみ」と言い灯かりを消した。 妻は、この騒ぎに気ずいていたと思うが 部屋から出てこなかった。 私は、自分の床に入ったが 何か興奮しており 又母の言った言葉が気になって なかなか寝付かれなかった。 <やっぱりボケているのか しかしボケて理性が無い反面 私を妻のところに行かせたくないと言う潜在意識があり それが無意識に口に出たのか それならなおさら問題だ> 空が白みはじめて ようやく眠ったようだ。 [12] その2 そのまた2日後 妻が私に言った。 「オバアちゃんが、トイレの洋式便器に反対向きに座ろうとしているので<それ 反対よ こっち向きに座るのよ>と言ったら オバアちゃんが<主人が こうせいと言うた>と私の言う事 きかんのよ」 我が家のトイレは、2階は洋式だが 1階は和式の水洗だ。 足腰の弱い母の為に 和式の上に置くだけで洋式となるものを買ってきて その使い方を教えたのだが どうやら反対に座ると理解したらしい。 「アレアレ反対向きか」と思わず笑ってしまった。 その後 フト或る思いに私の顔は、曇ってしまった。 母は、私を息子としてでわなく 夫と間違えているのでわないか。 確かに 私は、父親の顔によく似ているらしい。 とすると私の妻は、母にとって一体何なのか?。 <孝子さんのとこ 行くまさんな>とは、夫を別の愛人に取られたくないという想いの言葉だったのか?。 いやいや それ以上は考えまい。やっぱり ボケているんだ。 |
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{13} アラビア語(?)の年賀状 「バアちゃん 年賀状やけど---敏夫・静子のとこや親戚には、バアちゃんと俺の連名で出しておいた。 もとえさんや斉藤さん それに毎年出しているお世 話になった人のところには、バアちゃんの直筆の年賀状が いいがんないかねえ」と年賀葉書5枚とボールペンを渡した。 母は、何も云わず座卓に向かい ボールペンを手にもった。 「住所わからんかったら ブランクにしておいて 後で 俺が書き込むから---」 2時間程後に、母の部屋に行ってみると 母は、庭に出て右隣との境のフェンスに両手をかけて お隣の庭をジーッと見ていた。 年賀状は?--と見ると 座卓の上に2枚だけ書いてあった。 とり上げて見てみる。 ひらがな らしい文字が大きく4行書いてある。 しかし読めない。 年賀状だから どうせ<あけまして おめでとうございます>といったきまり文句だろうからと 判読しようしてもやはり ダメ。 表書きは名前が書いてあった。 斉藤 好子様 大谷もとえ様と判読して やっと読めるが、私以外の人は読めないだろう。 「バアちやん 斉藤さんともとえさんへの年賀状 アラビア語で書いたがか?----ほな 住所書き加えて 出しておくよ」 母は、こっちを見て ニーッと笑ったが直ぐ又 お隣の庭を見続けていた。 我孫子に来て直ぐの頃 母は、気心の知れた永年の友人である 斉藤・大谷のお二人に お礼と我孫子の家のことをハガキに書いた。 漢字の少ない ひらがな文字であった。 読めないだろうと思われるところの横に 私が、添削加筆してポストに出した。 あれから2ヶ月 文字を書くという面での母のボケは、こんなにも進行してしまったのだろうか? 以前には 母は書くことが好きで万葉文字を想わせる ややくずした流れるような きれいな字を書いた人だったのに---。 母のアラビア文字のような賀状は破り かわりに私の賀状に母の名前を連記して出した。 {14} 内科の先生は好き 歯医者さんは嫌い 母が我孫子に来て2年目・平成2年が始まった。その最初の土曜日 母は、風邪を引くこともなく 食欲も旺盛で元気だったが 年齢からも 近くに掛かりつけの医者がいた方が良いと思い 東我孫子駅の近くにあるK医院に連れて行った。 「いささかボケています。中風のように右足が震え時たま(本当は毎日)お漏らしをします。なんとか直してやって下さい。」「ボケを直したり、震えを治すこ とは、自分にはできない。勘弁してください----どうしてもということなら大学病院へ行って下さい。」 「 失礼なことを申しましたのならお許しください。なにせ近いことだし--今後共よろしくお願いします。」 そんなやりとりがあって ようやく老先生が診察して下さった。 「血圧は、122の下が70 普通です。 どこも悪くはない。年とって 少々ボケた程度です。とにかく 身体を動かして血行をよくすることです」と言われ、血流をよくする粉薬と錠剤をいただいた。 その日の私の日記からーーーありがたいことだ お医者さんが<少々ボケた程度だ>と言って下さった。 その後 佐倉の国立歴史民族博物館へドライブした。 いつものように母と私の二人だ。 残念ながら うれしさは無い。 妻を一週間に一度ぐらい 母の世話から開放してやりたいーーそうした義務感だけのよう だ。--では苦痛かーー否。 アッチコッチ知らないところへも行き 好奇心は満たしてくれる又母が、言葉では言わないが 非常に喜んでくれているようだ。 私としてもマァマァ結構楽しんでいるのかもしれない。 それにしても 何故 孝子は、カタクナになっているのか 母が来てから笑顔が消えた。 生ける屍のような感すらある。 母に対して 猿山のボス的振舞いをしながらも---. 願わくば 妻に明るい笑顔が戻り ドライブにも一緒に来てくれれば---。 中年になっても歯並びがきれいで丈夫 殆ど自分の歯だと自慢していた母も、75歳の頃には 自分の歯は4〜5本 後は入れ歯であった。 外出する時以外は、殆どはずしていた。 我孫子に来てからは 外出する時もはずししたままだ。 「歯をはめて」と言うと はめようとするが 痛がってすぐはずしてしまう。 「これは、歯と合わんようにようになってきたんや。バアちゃん お金持ちなん やし 歯医者へ行って新しい入れ歯作ってもらおう」 こうしたことで 同じ町内のK歯科医院へ通うことになった。 妻に連れて行くように行ったが 「オバアちゃんより20Kgも少ない私に オバアちゃんを引っ張って 急な石段の玄関を登れない」とのことで 私の会社の 休みを選んで 私が連れて行くことになった。 確かに急な階段で 妻には無理だ。 私が母を背中におぶって石段を登った。 優しいご夫婦で共に歯医者であった。しかし母は、始めから最後まで緊張しっぱなし すごい顔をしていた。 内科の先生は好きだが歯医者さんは嫌いなんだ--そうおもった 入れ歯でなくさし歯をお願いしたが K先生は「お年ですから歯ぐきにあった入れ歯を何回か作った方が良い。老人医療で無料ですし?ーー顎骨に柱を入れ固定 抜けない歯を作ることもできるが 600万円位かかる。」と言われた。それで入れ歯を作ってもらうことにした。 デンタル・チエアに母を乗せるのも一苦労。乗った後も 先生が治療しやすいように 母の頭を私の手で押さえ又母の手がムヤミに動かないように押さえていなければならない。 時々 母がアーアッ ウウーッと痛がる。時折涙すら流している。「楽にして 痛くないから」と先生が言う。私も「大丈夫 大丈夫 口開けたままやぞー」と横から叫ぶ。 6〜7回通って ようやく新しい入れ歯が完成した。 「バアちゃん なかなかいいわ やっぱし歯があると10歳以上若く見えるワ」と私が云うと ニーッと笑ってみせた。 しかしである 3日目 固定された筈の入れ歯をはずしてしまった。無理やり引っ張ったのか 自分の歯も一本もはずしてあった。 又歯医者さん通いが始まった。 今度はすぐはずせるように作っていただいた。その後母は、めったに歯をはめなくなった。そのくせ ハンカチにくるんで ハンドバックに入れて持ち歩いた。 妻が母の為に用意した比較的柔らかい食事を、残った4本の歯をきように動かして食べた。 私も諦めて 歯のことは 言わないようにした。 [15] バアちゃん専用の特大スカート 母の衣類は、金澤で妹に見てもらい或る程度処分して来たのだが--それでも洋服ダンスに一杯あった。 桐の和ダンスにも 紋付の着物を始め沢山の着物があった 洋服は、最近のなかなかオシャレで似合うものから 10年以上前の古いものでシミのついたものや似合わないものもあった。 スカート類は、腰まわりのホックと言うのかフックと言うのか留め金具の位置が最大で なかにはそれでもハマらず位置を拡げたものが多かった。 冬用のコートは、それこそ20年前を思わせる古いものでヨレヨレであった。 緑色のものらしいが今では色あせて白っぽくさえ感ずるコートを着て毎日母は、散歩していた。。 みかねて妻が、母を洋品店へ連れて行き紫色のハーフコートを買った。 年相応でなかなか似合っていた。 妻は、母の為に布地を買ってきて 春夏秋用2着 冬用2着計4着のロング・スカートを縫い上げた。 ゆったりと大きめに作ってあった。 冬用のは、特に長く足首近くまでのスカートであった。 母は、非常に喜んで 毎日履いて愛用していた。 私から見ても よく似合っていた。 腰部の留め部は、太目のゴムなので伸縮自在 トイレでも簡単 紙オムツ着用にも便利であった。 我が女房殿 なかなかやるワイ!。 |
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: {16} 何でも揃う老人介護用品屋さん 外出時には失禁用パット(35Х16×1.3cm紙オムツ・医療費控除 対象品)をフンドシのように前後にあて、パンテイを引き上げそれを包むように履かせた。これは以外に簡単で、ズリ落ちることもなく半日ぐらいは 取替えなしで十分持った。(下痢便のときは、これではダメだった。) この失禁用パットや歩行用ステッキは、隣町である柏駅北口近くの「福祉医療サービス」で買い求めた。 我孫子市役所高齢者福祉課を訪れて教えて貰った 介 護用品・医療・健康器具屋さんである。 ここを初めて訪れた時 妻も私も、老人介護用の便利な消耗品や器具がこんなにも沢山あるのにびっくりするやら感心 したりしたものだ。 比較的安いし、確定申告時の医療費控除対象品が多い。 「ボケや寝たきり老人の介護は、大変だ。 一家不幸の最たるもの。」と聞き 先入観的に抱いていた<大変>さも こうしたお店の便利な品々を有効に活用すれば ずいぶんと感じ方が変わってくる。 最初の日 ステッキや失禁パッドの他オムツカバー、防水シート そして瞬間噴霧消臭剤を買った。実際使ってみて非常に効果もあり 介護する方も楽である。 その後 何度も訪れた。その折買い求めた歩行用セーフティアームは、歩行用よりポータブルトイレの手摺りとして実に有用であった。 ボケや寝たきり老人の軽度・重度の差、おかれた場所、情況等により 何でも揃う実に便利な老人介護用品屋さんである。 {17} 不垢不浄・指紋が消えた。 我孫子に来て3ヶ月ぐらいは 母は自分の布団を干すのが日課のようであった。(冬の我孫子は晴天の日が多い) 又自分の下着類を自分で洗濯していた。 もっとも洗濯日和の好天時 「おバアちゃん サァ お洗濯よ」と妻から声をかけられてではあるが---。 バケツに下着類と洗剤を持って 庭先にある注水栓と洗い場のところで 手洗いで洗濯をしていた。 でも だんだんしなくなった。と云うより妻が「お洗濯よ」と声をかけなくなった。 なんとなれば 母の洗濯は、子供より悪い 洗濯になっていない。 手洗いに力が入っていない。濯ぎをせずに物干し竿に干している。やがては水につけたまま忘れて放りぱなし。等々の為である。 結局 母のお金で母専用の電気洗濯機を買い 下着・寝巻き・シーツ類を妻が洗濯することになった。 そして そして なんと 1階のトイレの洋式便座(やがてポータブルトイレにかわる)・母のパンテイ類・1階座敷と廊下用雑巾・庭への出入り口敷石上に置 いた2枚の人工芝は、私が この私がクリーニングすることとなった。 要は 母が用便したりお漏らしした後始末は、実の子である私が担当することになった わけである。 結婚以来トイレの掃除なんて一度もしたことの無いこの私がである----。 大きめのゴム手袋を買ってきたが 冬の水は、冷たい。 何時の間にかゴム手袋の中までグチグチに濡れてしまう。 オシッコや下痢便の後始末に使った雑巾は、貴重品である。 使い捨てにはできない。少なくとも4〜5回は、使わねば---。 母がこんなことを考えて貯めたのか 引越し荷物の中にタオルが ダンボール箱に一杯あった。 この先 長い長いクリーニングのことを考えなければ---。 洗剤をつけて手洗いし絞ると 真っ黒な水がでる。 ゆすいで絞りまたゆすいで絞る 3〜4回繰り返す。 手がカジかんで感触が、無くなる。 東隣の家の奥さんが庭に出てこられ 私がしていることを見られ黙って頭を下げられた。 その時 何故か遠い昔・私の大学生の頃を思い出した。 私の部屋から 中学の同級生F君の家の後ろと庭が見えた。 銀行員だというF君のお父さんが ミゾレの日も小雪の舞う日も庭先で洗濯しておられた。 奥さんやオバアちゃんがおられるのに どうしてお父さんが ---。一寸とした疑問だった。 それから30年以上経って フッと思い出し アアッ f君のお父さんは、今の私と同じ立場で私と同じことをしておられた んだ そう思った。 この頃 私は、般若心経を暗誦するべく 毎朝仏壇の前で練習していた。 そうだ! 不垢不浄だ!。 この世には汚い物もきれいな物も本来無いのだ。 この母があればこそ 今の私が生まれてきたのだ。 私だって 何時の日にか誰かのお世話にならなければならないだろう。 不垢不浄 不垢不浄。 3月になり水がぬるんで来た頃 右手左手共に親指と人差し指がおかしい。お札を数えられない。 銀行員が何十枚ものお札を 手つき鮮やかに数えるアレを 私も得意にしていたのに---。 一枚一枚を剥がすようにしてしか 数えられないのだ。 4本の指をじっくり見て驚いた。 指紋が消えている。指紋が無い。何かツルンツルンの感じだ。 そして脂分も水分も無い。そして よく見ると横方向にいくつものヒビ割れのような線が走っていた。 皮膚科の先生が 角化性乾燥性皮膚疾患治療剤というチューブ入りの軟膏をくださった。 やがて 水に濡れると痛いので 文房具店でゴムの指サックを買ってきて それを嵌め更にゴム手袋をして 不垢不浄 と唱えながらクリーニングを行った。 慣れて何とも思わなくなった頃 指紋が再生していた。 |
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{18} 女やさかい 我孫子の家は、JRの2駅が利用できる。 我孫子駅から分岐して成田線があり1駅目が 東我孫子駅である。 私の家からは歩いて2〜3分である。 ラッシュ時には1時間に3本電車があるが 通常は30分に1本の割りだ。 我孫子駅から水戸方面へ向かって1駅目が天王台駅である。 この駅は、比較的新しい駅だが 常磐線快速停車駅であり地下鉄・千代田線の延長・JR緩行線ともなっている。 列車の本数はかなり多い。ラッシュ時は5分間隔 通常は10分間隔である。 徒歩で10〜13分かかるが 平坦な道で住宅街や商店街を通り 退屈はしない。 そんな理由で 私・長女・長男の3サラリーマンは、通勤定期の一方の駅を天王台にしている。 たまたま タイミングが合い 上野駅から成田駅への直行快速電車があったり 雨降りとなった場合は東我孫子駅で降り 無人駅なので 列車の最後尾で車掌さんに料金を精算するという利用の仕方をしている。 2月中旬の或る寒い夜 11時過ぎだった。 たまたま タイミングが合い私はこの東我孫子駅に降りた。 西の出口へ向かって15M程歩いたところで母を見付けた。 コートは着ていたが背を丸め両手を口にあてて足が震えている。 「バアちゃん! どうしたがや -- こんなところで 一人で何しとるがや?」 思わず怒鳴るように叫ぶ。 「----真紀がー帰ってこん--」 申し訳なさそうに 小さな声だ。 「真紀を迎えに来たがやて!? そやけど 真紀は会社で残業かもしれん 友達と寄り道しとるかもしれん それに こっちでなく殆ど天王台の駅を利用しと る。 待つとってもムダや。 それよかこんなとこに長いことおると風邪引いてしもう。 サァ 早よう 家に帰ろう。」 私は、何か熱いものを感じながら 母の冷たい手を引いて線路を渡り家へと向かった。 そう言えばこの無人駅 プラットホームが2本あり それを線路を歩いて渡るようになっている。 上り線は吹きさらしであるが それでも屋根つきの待合室らしきものがある。下り線はなにも無い。それなのに どーして この下り線で母は待つていたのか? ヨタヨタしながら線路を横切ってまで どれくらい長い間待つていたのか?。 「バアちゃん ここは、線路を渡らんといかんとこや バアちゃんの足では 電 車が来たら轢かれてしもうかもしれん 真紀のこと心配してくれるのはうれしいけど 2度とこんなことしたら ダメやぞー---こんな寒い日に---ほら鼻 水出とるがいね 」 私が差し出したティシュペーパーに 幼い子がするように 鼻を突き出して「フウン」と鼻水を切った。 「そやけど 何で真紀ながや?」 「---女やさかい---」 「--!!--」 そうか壮一は、男だから遅くなっても心配しないが 真紀は、女故心配して迎えに来たと言うわけか---この母 ほんとはボケてなんかいないのではないか---。 母をかばうように 引っ張るようにして8分もかかって家に帰った。 真紀は、天王台駅を利用して既に帰っていた。 妻は、母が出かけたことに気がつかなかった と言う。 夕食後 テレビを見て 寝ているものと思っていたらしい。 2010年08月12日 18:27:34 {19} 縫い物・編み物 もうお手上げです。 私が会社から帰り居間で食事をしていると母が入って来て「テレビ壊れた」とか「コタツ壊れた」とよく言う。 「またスイッチ切ったままだろう」と言い母の部屋へ行く。 テレビのスイッチを入れると映像が映りだし音も出始める。 電気コタツも中間スイッチを押すと赤い熱源灯が点く。 母がホッとしたような顔になる。 金澤に居た頃から電気製品は、コンセントを差し込んだり抜いたりして電源を入れ スイッチを使わない。 何かの拍子でスイッチが切れると 「壊れた」と言う。 3年前迄は そんなことなかったのだが---。電気掃除機・電気洗濯機・扇風機・エアコン みなダメだ。 電気ストーブ・石油ストーブ・電気アイロンそれから仏壇のマッチ等 火に関するものは、危ないので取り上げ 押入れの天袋に片ずけて仕舞われていた。 年末迄は 雑巾縫いぐらいはしてくれていた。 もっとも 老眼鏡をかけても針の穴に糸が通らないらしく 私のところへ来て 糸と針をスーッと差し出す。 糸を通すと 自分の部屋に持って行き タオルを四ッ折にして雑巾を縫う。 出来上がった雑巾の縫い目は、一つが1cm以上ある。 昔は、芸術的な手さばきで縫い物・編み物をしていたのに---。マァ これでも いいか。雑巾としてはこれで 十分役目を果たす。 2月下旬の快晴の日 母の部屋の広い縁側は、太陽が差し込み暖房いらずの暖かさである。 ボケの進行防止の為には 頭と手を使う仕事が良いと聞いていたので 私の手編みのチョッキを ほどいて5cm程短くしてもらうことを思いつき 母に依頼した。 このチョッキは、20年程前 太めの毛糸を使い母が私の為に作り送ってくれたものである。 編み物の先生をしていたのだし 自分で編んだものだから サンルームのような縁側でポカポカ陽なたボッコをしながら 3〜4日で作り直してくれるものとおもった。 ところがである。 翌日 母が私のところに持ってきたものは、無惨な私の愛用のチョッキであった。 チョッキのお腹あったりを裁断ハサミで真横に切り離し それを5cm程重ねて 例の1cm以上の縫い目で縫ってある。 それも一直線でなく折れ線グラフのように---。合わせ目は、めくり上がりとても チョッキと言えるものではなくなっていた。 「アアーッ!!」と思わず出かかった声こそ押し殺し 「バァちゃん ありがとう---」と言ったが おそらく私の表情は、隠せなかったと思う。 この日 バァちゃんの部屋から裁縫用の針・ハサミ・ナイフが取り上げられ 姿を消した。 もうお手上げ 要らないと言うのと持たせておくと危ないからと言う理由で。 {20} 花壇にうつ伏せ 一晩中か 「あなたーおバアちゃんが 大変--」と妻が飛び込んで来て 目が覚めた。 3月初めの朝5時過ぎ頃である。 「どうした--」思わず大声が出る。 「おバアちゃんが 花壇で倒れている---」 「なにィーッ---」 寝巻きのまま階下へそして居間へ 居間のガラス越しに見ると 母が、花壇にうつ伏せに倒れている。 畳一枚半位の花壇で 周りを赤レンガで囲ってある。 そのレンガに足を取られつまずいて倒れ込んだのか まるでベットにうつ伏せ寝ているみたいだ。 「バアちゃん 何しとるがぃね---」と声をかけたら こっちを見て 「うーうー ウーウー」と言葉にならない声を出し 足を少しうごかした。泳いでいるみたいに。 花壇は、妻の好きな花木や球根が植え込まれており それらを保護するための大小の支柱が沢山直立していた。 どうやら母には外傷は無いようだ。 それにし ても自分で立ち上がることが出来ない。 ひょつとすると夜中に 真っ暗な庭に出て花壇につまずいて倒れこみ 朝まで このウッ伏せ状態でいたのだろうか。 「助けてー」とか何とか声を出せば 2階の北側の部屋で寝ている妻はともかく 南側の2階で寝ている真紀・壮一そして私の部屋に 聞こえる筈だが?。 ともかく庭に出て 母を抱き起こす。60Kgの母の身体は重い。 雨降りではなかったが 母の寝巻きは泥だらけ パンツは濡れ 顔は、涙と鼻汁そして泥で真っ黒だ。 我孫子の3月初めは まだまだ寒い。 クション クションと赤ちゃんがするよおなクシャミをしている。 妻が急いで沸かしたお風呂で 私と妻の二人で 母の身体を洗い風呂に入れ 温まらせる。 母は、やっと生きかえったように 安心の表情に戻り 浴槽の中でタオルをしきりに動かしていた。 まったく外傷は無く 幸いであった。 ひとつ間違うと 支柱で顔や目を突いたら大変だった と妻と話あった。 陽はすっかり昇っていた。 母を母の部屋に連れて行き 布団の中に入れたら 本当に一分も経たない内に 軽い寝息をたてはじめた。 その日私は、出勤時間を大幅に過ぎていたので 会社へ電話をし半休することにした。 朝食後新聞を見ても活字が目に入らず 母のことを考えた。 62〜63Kgと肥えていると 自分一人では立ち上がれない。 失語症では 必要最小限の 或いは本能的な声も出せないのだろうか?。 花壇の花木は、見るも無惨に倒されていた。 その日の夕方 花壇の周りに 太めの支柱が40cm間隔に立てられ 上段と中段に白いビニールの紐が架けられ 中に入れないように<カコイ>がつくられた。 |
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