第3部続き(第21章〜第30章)

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小説「僕は落ちこぼれ商社マン」はこちら



 {21} パトカーで深夜のご帰還 (徘徊その1)

3月下旬に入ってすぐの頃 いつものように9時過ぎ 会社から帰宅すると妻がやや青ざめた顔付きで 「夕飯食べたら すぐ我孫子署へ行って欲しい---お バアちゃんが散歩に出かけたまま帰ってこない。 いつもなら2時頃出かけ 5時か6時には帰ってこられるのだけど---近くも捜したけど居ないし 8時過 ぎ警察に電話したら<今のところ該当者は居ない。 管内の警察には連絡する。写真持って 身内の人誰か来て欲しい>と言われた。 あなたお願いします」
「わかった 飯前に すぐ行ってくる。 何か最近のスナップ写真を一枚用意してくれ」--いよいよ道に迷い出したか ボケが進んだか 警察のお世話になるようになったか---
2Km程離れた我孫子署へマイカーで行った。 我孫子署では当直の若いおまわりさんが、3人詰めておられその内のお一人が
親切に応対して下さった。
住所・氏名・母の年齢や特徴・昨今のボケ状況などを記録された。 「近くの警察及び ひょっとすると金澤への列車に乗ることも考えられるので JRの駅に連絡します。見つかれば連絡するので一旦お帰り下さい」 と言われ 家路についた。 路のあちこちをジグサクに遠回りした。ひょっとして車のヘッドライトに母の姿が浮かび上がらないか と思って---しかしその期待は、空 しかった。
心配してか 食欲も出ず お酒を飲んでも 美味しいとは思えなかった。
母は、昔から根性の人でめったなことでは 弱音を吐かない。今もきっとトボトボと歩き続けているに違いない。むしろ力尽きて倒れてくれれば 誰かが見つけ て110番して下さる筈だ。 バアちゃん 早く倒れろ!---いや もし畑や田んぼの中或いは人の通らないところで倒れているとしたら---大変だ!!
床に入ってもアレコレ思ってなかなか眠れずにいた。
ウトウトした頃 「警察から電話があった」と妻に起こされた。
「何も喋らないのでわからないが 写真からみておたくのおバアちゃんに間違いない」と言っておられた。 妻は、洋服の侭であった。 眠らずに電話器のそばにズーッと居たのだろうか--。

我孫子署の一寸と奥まったコーナーのベンチに母が座っていた。
浮浪児のように泥やホコリにまみれ 肩を落とし すっかり疲れ果てたといった姿であった。
「バアちゃん 何処におったがいね?」と声をかけると 私を見て
「アゥ アゥ---」と言葉にならない声を出し いかにも<助かった>とうれしそうな安堵の表情を見せた。
先程の若いお巡りさんの説明によると<1時頃 利根川沿いの県道 エゾジ終末処理センター付近で倒れているのを 茨城県の橋本さんと杉山さんという方が車を止め110番して下さり パトカーが現地に行き署まで連れて来た>とのことであった。
終末処理センター(排水)と言えば 我が家から直線でも約6Km
 多分いろんな道を歩いて10Km以上離れている。 それに あの県道は、狭い2車線で非常に車が多い。 かなりスピードを上げて走っている。
よくぞまあ無事であそこまで行ったものだ。まして夜は、街灯も殆ど無い 真っ暗な道を---。
お巡りさんから「こうしたお年寄りや徘徊ぐせのある方には、名札を必ず付けて下さい」と云われた。 「えぇ 付けるんですが--すぐむしり取ってしまうも ので--」 「皆さん よくそう云われます。そうした時は、着衣の襟の裏とかスカートの後ろ裏・腰部あたりに縫い付けて下さい。我々は、そこを見ますか ら。でも良かったですね」とにっこり笑われた。
頭を何度も何度も下げて母を連れて帰った。
妻が沸かしてくれたていたお風呂に入れた。
お腹が空いていただろうが 今夜は無しということで 布団に寝かせたら この前の花壇でうつ伏せの時と同じで すぐ軽いイビキをかいて眠ってしまった。 よほど疲れていたんだろう。
母の安らぎの寝顔のちょうど上あたりに 若く凛々しい海軍将校姿の父の写真額があり 母の顔を覗き込んでいるように見えた。
そっと蛍光灯を豆球に切り替えて母の部屋を出た。私も何か興奮しており直ぐには眠れそうにないので ビールを飲んだ。 今度は、実に美味しく感じられた。

2日後の土曜日の午後 お礼の菓子箱を持って 母を助け、110
番して下さった橋本さんと杉山さん宅に 妻と一緒に伺いお礼を申し上げた。
当夜 道端にうずくまっている母を車のヘッドライトで見つけ 停車して「どうしました?」と近寄ると「アーアー ウーウー--」としか云われない。暫くし て「お名前は?」 「ミズカミ ミズカミ--」 「お住まいは?」 「--金澤 金澤--」とだけ言われ他のことは何も云われない。 そこへもう1台の車 が来て停車 事情を話したら 110番して来ると言って行かれ その後又戻ってこられ いろいろお世話をしているところえパトカーが来てくれた。--との お話を橋本さんの奥さんから聞いた。
「本当にありがとうございました」と頭を下げる私達に 「いいえ おたがいさまです。内にも同じような年の親がいます。又いつか私達も、おたくのおバアちゃんみたいになるかもしれませんから--」と言われた言葉が うれしく響いた。



 {22} デイケアセンター(託老所)大好き

平成2年3月中旬 妻が、友人から<デイケアセンターで認知症老人を半日預かってくれる>ということを聞いてきた。 近所の民生委員の方を通じ、願書とパンフレットを貰って来た。
パンフレットによれば 社会福祉法人栄興会特別養護老人ホーム 和楽園が、我孫子市の委託を受けてデイサービス事業を行っており 週2回 朝9時頃送迎バスで65歳以上の対象者を迎えに来て 夕方4時頃家まで連れ帰って下さるとのこと。
一日の日課は、健康チェック・朝の集まり・体操・グループワーク・昼食・入浴・おやつ等で 利用料金は、一日800円とのこと。他に一日1800円でショウトステイのサービスもあるとのこと。
これは、ありがたい。少なくとも週2日 妻が母の介護から開放される。 それに母自身同年輩の、同じ心身に障害のある人達と一緒にいられるということは、気が晴れて楽しいことに違いない。
介護する方はプロだし 看護師さんもおられるとのこと。安い料金で安心して母をお任せすることが出来る。
さっそくお願いすることにし申し込み手続きに入った。
我孫子市所定の様式による健康診断書をK医院で書いていただいた。
その中の「現症」に次の記載がある。
 脳動脈硬化症 右足振動 失禁 失語症

4月中旬 我孫子市から 在宅老人デイサービス事業利用決定通知書をいただいた。
4月17日 第1回の通所デイサービスが始まった。
私は、会社に出勤したので 当日のことはよくわからないが 後で妻に聞いたところによると 「観察リスト」に体温・身体の調子を記入して持たせる。タオルや着替えも持たせ 朝9時15分までに最寄の送迎バス停へ連れて行く。 夕方4時 送迎バス到着を待ち 母を家に連れて帰る。  デイサービスセンターよりの連絡帳に看護師さんが記載してある内容を読み 次回返事を書く。とのことであった。
「それで バアちゃんどうやった?」 「えぇ とても楽しかったらしく 生き生きとしていました」 「そーか それは よかった。」

連絡簿からの抜粋
(センター) 福祉まつりに提出する和紙の箱造りをしました。
       一生懸命やつて下さいました。 排尿もスムースで
        時間的に誘導してOKでした。 徘徊もありません
         でした。
(センター) お昼寝して下さっていると思っていましたら 廊下         を歩いていました。昼寝の習慣が無いのでしょう         か?
        オーム返しのこともありますが 時々自分の言葉        を発することもあります。 皆さんの話を一生懸命        聞いています。
(妻)     もともと好奇心の強い人ですから 園の中に何が       あるか見ておきたかったのだと思います。 家では       午前・午後共に昼寝をしています。
(センター)昼寝をなさらないので小さな袋物を縫っていただいて       います。歌や体操など 笑顔で参加してくださってい       ます。お風呂の中では、とても良い顔になります。
(妻)     いろいろ詳しくお知らせいただきありがとうござい         ます。 よろしくお願い致します。
(センター)グループワークでゲートボールの練習をしました。
        ご本人も乗り気で 力も強くボールを打っています。
4月末 デイケアセンターで介護教育があった。 私は、どんな施設なのか 入所者はどうしているか 非常に関心があったので一日会社に休みを貰って 出席した。
センターは、我孫子市の東部 成田街道と利根川沿いの県道の中間 農地と林の中の静かで陽当たりの良い場所にあった。
建物も比較的新しく とても明るく広々とした感じであった。
清潔な食堂では、20数人のお年寄りが、楽しそうに話しながら昼食をしていた。 車椅子の人も5〜6人居られる。介護の女性職員が、スプーンで食べ物を持って行き食べさせておられる。
浴室は、特別浴室と一般浴室がありとても大きく立派な施設だ。静養室とトイレも文句なしだ。

介護教室には 市役所の係りの方や施設の方を含め10人ばかりの方が、参加されていた。殆どの方が女性で中年の方だった。
寝たきり老人・痴呆老人の介護の仕方がお話の中心であったが夫々家庭で介護やお世話をしておられる方々の悩みや苦労話がお互いの共感を呼び 話をすることにより 胸の中に溜まっていたものが吐き出され 開放感に浸る。----そういったことも この集まりの目的であるように思えた。
センターの難点と言えば、独特の老人臭だが----これは仕方がないこと。 センターでこれは素晴らしいと思えたことは、職員の方の目が輝いていること だ。 責任者の方も介護の方々も 無料奉仕ではないにしても ボランテァというか 人のお世話をする人達は、どうしてこうも目が表情が 輝やき美人に見える ことか--。
母が、このような素晴らしいところでデイサービスを受けれる---実にありがたいことだと思った。



 {23} 金沢帰省(孫の結婚式)

母は、デイケアセンター和楽園へ行く火曜日と金曜日を心待ちするようになり 喜んで通所していた。 6回目からはお休みした。私の弟の長男・母の孫・忠彦君が、5月5日金沢で結婚式をするのに出席する為だ。
4日11時 天王台駅から常磐快速で上野駅へ そして上越新幹線で長岡駅 ここで特急・北越号に乗り換え金沢駅へ。
母の足弱で駅の階段の昇り降りには、非常に時間がかかる。
エスカレーターは、2年前から怖がって乗ろうとしない。
私は母と2人分の大きな荷物を3個 そしてお土産品の大きな袋と4っも持つているので 母の手を引くのが精一杯だ。母は、金沢へ帰るのが余程うれしかったとみえ 一歩一歩一生懸命足を運んでくれた。(次回はJRはダメ 車で行こうと思った)
母は、JRの列車の中では一睡もせず お弁当や果物を食べる時
以外はズーッと車窓から流れ去る風景を見続けていた。
4時間毎のトイレ誘導には素直に従い トイレの中では自分で用を足した。
金沢駅では、弟と妹が迎えに来てくれていた。
母は、自分のお腹を痛めて産んだ息子と娘を認めて 声は出さないものの 喜色満面の顔になった。
その日から弟の家で泊まった。 弟・その嫁・妹・その夫・それに子供達が、入れ替わり立ち代り「バアちやん バアちやん」と大賑わい又世話をしてくれて 私は、暫くの間母の介護から解放された。 母は、長い言葉はダメだが 単語を並べた程度の短い言葉
を喋っていた。
久方振りのことでもあり「これ食べまっし あれ食べまっし」と皆が
母に薦める。母は、薦められるままドンドン食べる。金澤弁で言う<食いチブ>である。
「オイ オィ 気持ちはわかるが 下痢して大変なことになるから」
それからは誰も母に薦めなくなった。しかし 母が、ソーッと手を伸ばし 食卓のご馳走をつまみ食いしていた。 「コレ ダメ--」
妹がすこしオドケて 母の手を軽くたたいたら 母が、ビクッと首を
すくめた。 その仕草が、親に叱られたイタズラッ児のようで 皆で 大笑いになった。

翌日 忠彦君の結婚式は、金澤の駅西 金澤平安閣で行われた。美男美女の素晴らしいカップルが、60人程の参列者から羨望と
祝福をうけていた。
母は、最も可愛がった内孫の結婚式だというのにそれ程感銘や
感動を覚えた様子はなく それより食卓に並んだ豪華な料理の方に興味を示していたようだ。
トイレ誘導は、妹と弟の嫁がしてくれていた。

次の日の午後 東力1丁目にある妹の家へ招かれて 母と一緒に行った。
妹がマイカーで迎えに来てくれ 妹の家に到着 車から降りてすぐのことだった。「アァーッ」という 小さいが裂くような母の声 振り返ったら 母が側溝の中へ右足を深く突っ込んで 前かがみに倒れている。急いで引き上げたが右太腿から血が吹き出ている。
鉄製の溝蓋で切ったらしい。
応急手当をしたが5〜6ヶ所も切っており どこかお医者さんへ連れて行く必要があると思った。
あいにく日曜日なので 市役所の当直の方に電話して休日診療のお医者さんを教えて貰い 寺町のI病院へ連れて行った。
前もって電話して了解を貰っていつたので 看護師さん達が準備して待っておられ すぐ処置室へ連れて行かれ お医者さんの診察の後消毒そして10針ちかく縫合して下さった。
この間 母は、痛いとも何とも言わず 他人事のような顔をしていた。母の傷の処置は終わったがとても歩けたものではなく 暫くは通院した方が良いと判断 私は、母を金澤に残し 一人で我孫子へ帰った。

1週間後 妹の車で母が、我孫子に帰って来た。 弟夫婦も一緒だった。 母の傷は、かなり良くなっていたが歩行はビッコを引き以前より歩き辛そうであった。 I病院からの申し送りで どこか整形外科病院でリハビリーに通院すべきとあった。
母は、久し振りであったこと・思わぬ怪我・滞在も短期間ということで金澤の親戚をアチコチ行き どこでも大事にされ 楽しい毎日
であったようだ。
弟達は、我が家で一泊 翌日は、浦安の東京ディズニーランドで半日遊び 金澤へ帰って行った。



 {24} バアちゃんの病医院通い/アルツハイマー病

5月14日(月) 妻が母の手を引いて約1Km離れたT整形外科病院へ連れて行った。 怪我をした右足太腿に電気をあて温熱療法と簡単なリハビリーを行うらしい。 週2回通院しなければならないとのことだった。
たちまち妻が、音を上げた。 「オバアちゃん 私の言うことを聞いて下さらない。僅か1Kmのところをゆっくりゆっくりだし 違う道を行こうとしたりされ る。。私が手を引いても 逆に私の手を引っ張って自分の行こうとする方向に行こうとされる。身体も力も私以上大きく強い。T病院では 30分位なのだけど  往復に3時間もかかることあり 家のこと何もできない。 貴方 会社の方 半休ずつとか取って マイカーで連れて行って欲しい」  「土曜日は休みなので俺が連れて行く。もう1日 水曜日あたり半休をとるようにするが 毎週というわけにはいかん。 その時は 大変だろうがお母さん  バアちゃんを連れて行ってくれヨ」 そんなことで母は、水曜と土曜日 T病院通いがはじまった。
3月からはY皮膚科医院にも時々通っている。 これはオモラシの量が多く敷き布団まですっかり濡れるので 一寸おかしいと皮膚泌尿科へ連れて行き<膀胱炎>とわかったものである。 この頃
布団の丸洗いを2ヶ月に1度行っている。 妻の話によると このY医院で母が先生に「チンチン痒い。薬くれ」と言い 塗り薬を貰った。 次に行った時「もっと きついが欲しい」と要求したそうだ。
先生は「これ以上強いのは無い あげれない」と答え 妻に対しては「この年齢の方で糖尿病の人は、非常にカユがられることがある。今迄の薬で充分ですから」と言って下さったとか。

T整形外科病院の先生から「おバアちゃんの怪我のリハビリーは、すっかり良くなったのでもう来なくてもよいですヨ」と言われたのは、意外に早く 1ヶ月後のことであった。 3ヶ月から半年は覚悟していただけに これは助かったとおもった。
その折 先生から「おバアちゃんのボケは、脳血管型かアルツハイマー型か調べて貰った方がよいですヨ。 もしアルツハイマー型の方だと難しいが 何らかの 脳障害によるもので手術すれば直るものも有る。 どこか検査設備のある大学病院で検査されたら良いですヨ。 良かったら東京にあるT大病院を紹介します ヨ」とのことであった。
先生に何度も頭を下げて 母を連れ家に帰った。
「バアちゃん 足の方もうすっかり治ったからもう来なくても良いと先生が言うといでた。良かったネ」 「よかったネ」 「--?--それと ひょっとしたら バアちゃんの頭の方も直るかもしれん。東京の方へ行くのは大変やけど 柏のG医大病院なら比較的近いし 
そこへ行って調べて貰おう」 「調べて貰おう」 母は、またオーム
返しだった。

その日 家にある医学辞典や医学書を引っぱりだして アルツハイマーなる言葉の意味をしらべた。 <老人痴呆>と言う言葉はあったが アルツハイマーというのは無くよくわからなかった。
後日 1991年(平成3年)9月7日の読売新聞夕刊に載っていたー老人性痴呆症 治療から予防へーの中の記事が非常にわかり易かったので転載させていただく。

<老人性痴呆症とはーー高齢に伴い記憶や思考力が損なわれる症状。原因としては、脳梗塞・脳内出血等の脳血管障害やパーキンソン病・ピック病等70もの病気が挙げられている。
アメリカではアルツハイマー病が、急増 官民あげての取り組みがはじまっている。 我が国では脳血管障害性痴呆が、全体で50% アルツハイマー病は、20〜30%で 患者は約100万人にのぼると推計されている。
アルツハイマー病は、大脳皮質下の神経細胞と重要な関係があります。 研究のメーンはアミロイド蛋白で これが溜まって痴呆になるわけです。 ボケが発現するには、30年かかると言われており もしこのアミロイドを薬でカットできるならアルツハイマー病が出ずに済むことも考えられます。(遠藤  英俊医師)
この新薬が何時開発されるか予測はつかないが 進行を予防・遅らせる薬が出来れば 患者は、1/2にまで激減すると言う。

1991年12月27日号 週間朝日 「治るかボケ? 痴呆症を起こす引き金役を遂に発見」抜粋。
脳が萎縮してしまう原因不明の痴呆症<アルツハイマー病>の引き金役を、世界で初めて三菱化成生命科学研究所が発見した。アルツハイマー病は、脳細胞の中 に繊維が溜まってしまい 脳細胞が死ぬことにより発生する。 この悪玉の繊維は、主に蛋白質で出来ている。 蛋白質自体は、良いヤツだが これがリン酸化 した時いっきに悪玉繊維に変わってしまう。 悪玉が見つかっても コイツがどんな時に善人を悪の道に引きずりこむかが まだ
わかっていない。 
仮に解明されても ボケの予防薬になるだけで 根本的な治療法は、脳移植しかない。

1991年11月24日 産経新聞 「アルツハイマー病に心の介護」抜粋。
アルツハイマー病は、今のところ原因不明である。 従って決定的な治療法もない。 徘徊・記憶障害・昼夜逆転症状・失語症などが主な症状である。



 {25} G医大柏病院 精神内科

1991年6月23日(土) 意を決し 母を連れて柏のG医大付属病院へ行った。沢山の患者で順番待ちだと聞いていたので 診療1時間前の8時に病院に 入ったのだが 受付を済ませて行った内科一番(精神内科 W助教授ー後に教授)の窓口は、既に20人近くの人が並んで座っていた。(内科全体では200人 位)
産婦人科と共用の待合室は、広く200坪もありそうに思えたが患者や付き添いの人で一杯であった。
9時から診療がはじまった。 マイクの呼び出し 人の行き来 たちまち騒音のルツボである。
着飾った人・パジャマ姿の人・杖をついた人・車椅子の人・目を瞑っている人・話込んでいるひと・咳をして苦しそうな人・老若男女・様々な人達がいる。
4番窓口から9番窓口は、どんどん進んで行くが1番から3番はあまり進まない。特に母が指定された1番窓口は、もっとも進行が遅いようだ。母は、椅子に 座っておとなしくしていたが 1時間経った頃ゆっくり立ち上がり 右足をややひきずり ホール入り口の方へ歩き出した。トイレでも行ったのかと思い 隣の 人に声をかけて席と鞄のことをお願いし 私はソッと母の後を追った。
母は、右や左を見ながら前の方へゆっくり歩いて行く。
冷水器の方へ歩いて行き 手でボタンを押し 美味しそうに水を飲んだ。 その後ゆっくり自分の席へ戻って行く。 私は、あわてて先に自分の席に戻りまるで 気がつかなかったように本を読む仕草をした。母は、黙って自分の席に座った。 その後又1時間ぐらい経って 同じことがあった。
<あんなに水を飲んで大丈夫かなあーーいつものように大人のオシメはさせて来たがーーまぁ いいかーーそれにしても診察の順番は なかなか来ない。3時間待って 3分 と言うのは、このことかーー遅いなぁ>
やっと マイクで名前と番号を呼ばれて中へはいった。 そこは診療室が10室近く並んでおり 廊下にベンチがあって 夫々の部屋の前に5〜6人の方が座って 又順番を待っておられた。
12時に近い頃 ようやく診察を受けた。
50歳位の中肉中背の男の先生と同じく中肉中背のやや年輩の看護婦さんがおられた。
内申書を読んでおられた先生が母の方に向かい にっこり微笑んで話かけられた。 「こんにちは よく来ましたネ お名前は?」
「ミ・ズ・カ・ミ ミサヲ です」 「水上さん 生年月日は? いつ生まれましたか?」 「大正3年5月27日です」 「住所は? お住まいは何処です か?」 「金澤---」 「それは前のところで 今は我孫子ですね?」 「そうです」 「ご主人は どうされましたか?」
「マニラ フイリピン マニラで戦死した」 「それは それは---ときに第2次大戦 いや大東亜戦争は、いつ始まりましたか?」
「昭和16年12月8日です」 「よく憶えておられますね」
私は、吃驚した。 母がこんなに喋るとは。先生の誘導質問が 良いからか?。 母の答えは、ホボ完璧である。 なんだか私が質問されているような錯覚を覚 え ドキドキハラハラしている。 感情移入と言うのはこんな時のことを言うのだろうか。 私自身の身体が熱くなり 瞼も何か潤んでくる。
「水上さん これは、何ですか?」と先生が、母に尋ねられた。 「鉛筆」 「そうです 鉛筆です。 ではこれは、何ですか?」 「時計です」 「そうです 腕時計です」 これは、何でしょう」 「お金
100円?」 「 ハイ ではこれは、何でしょう?」 「---ナイフ--」 「そうです。ナイフですね。では これは、何ですか?」 「
---鍵です」 よくできました。 それではこれ等を机の中に入れますよ---さて水上さん 今日は何月何日でしたか?」 これは無理だと思った。 母の 部屋にカレンダーはあるが意識していないだろう。 近頃では新聞も全然見ていない。 「------」案にたがわず母は、何も答えられなかった。
「それでは 先程の5っの品物 机の中に隠した物の名前を思い出して 言って下さい」 「---?---!--」 一生懸命思い出そうとしている。 が 何と一つも言えないではないか。 そのうちプィと左の方を向いてしまい 別のものに関心を示してしまった。
「水上さん 100から7を引いたら いくつですか?」 「---93です」 「ハイ そうです では更に7を引いたらいくつですか?」 「--
-?--」考えていたが 答えはなかった。
後で知ったことだが これは長谷川式簡易知的機能評価スケールと言い ボケが軽いか重いかその程度を判定する一つの物差しであるそうな。

この日は別の検査室で 尿と血液採取がおこなわれた。 MRI検査を2週間後にする約束をして 病院を出た時は、午後1時を過ぎていた。 待合室は、ホボ 空になっていたがW先生のところは未だ5〜6人の患者さんが待っておられた。 昼食やお昼休みなしで W先生や看護婦さんが診療を続けておられた。
待つ方も大変だが診療する方も大変だ。頭の下がる思いであつた。

2週間後 MRIの検査が行われた。
母は注射をした後 肩幅ぐらいのストレッチャーに上向きに寝て 落ちないようにベルトで固定された。 母の体が大きく 重い 又少し嫌がるようなので 乗 せるのに苦労したがMRI担当の先生の助けもあり うまく乗った。 その後は まったく静かでおとなしくされるがままになっていた。
MRIとは、Magnetic Reginance Imagingの頭文字をとった名前で日本語では磁気共鳴イメージングと言い 脳血流検査を行う装置とのことだった。
大きな装置で中央に大きな穴があり 母を乗せたストレッチャー毎 押し込まれた。 多分CTスキャンのように母の頭を輪切りにレントゲン撮影しているのだろうと思った。
約20分でMRI検査は、終わった。 母は、半分寝ていたような虚ろな目をしていた。

更に2週間後 W先生から検査結果と診断の説明があった
MRIの写真フイルムは、白黒ではなくカラーのようであった。
母の頭を上から見て 輪切りにしたフイルムには赤と黒の模様があった。 先生の説明によれば 赤い部分は血流が盛んなところ黒い部分は脳の萎縮の跡とのこと。
私にはよくわからなかったが 黒と赤の模様は半分ずつで 赤の部分が下の方(いや 上の方だったか)に集中していた。
母のボケは、アルツハイマー病と診断された。
脳血管障害で ひょっとして手術したら治るかもしれないという期待は、これで消えた。




 {26} 行川(なめりかわ)アイランドの大事件

話は少し遡る。G医大柏病院へ通院する少し前の6月中旬 Y新聞YFCクラブからいただいた招待券を持つて房総半島の行川アイランドへ母を連れて行った。
かなり暑かったが 快晴の行楽日和であった。
自宅を8時に出て約2時間30分のドライブ
母は、何も喋らぬが 助手席に座りベルトを締めて--この頃では自分でベルト金具を装着できる--窓越しに景色を飽かずに見続けている。いかにも うれしそうである。
行川アイランドでは 沢山のフラミンゴが、ダンスやショウを見せてくれた。 ピンク色のきれいなフラミンゴ達が、音楽や飼育係りの女性の合図に合わせ揃って踊るのは 本当に見事で素晴らしかった。 母が口をまんまるに開けて見入っていた。
広い園内を母のゆっくりゆっくりの足取りに会わせて見て回る。
崖の上の展望台からは 青い海と空が見えた。水平線は 地球が丸いことをはっきりと示していた。
母は、手摺りにしっかり掴まって 足下の濃い青と緑そして白い波しぶきを食い入るように見ていた。
お昼は、評判のポリネシアンダンスを見ながら 肉と野菜のバーベキューを卓上のコンロで焼いて食べた。 フラダンスの熱気とジュージュー音をたてて焼ける肉や炉の熱で汗が流れる。
私は、冷たい生ビールでご満悦。 母は、歯の少ない口ながら上手に焼肉をほおばり実に美味しそうに食べていた。
食事のあと 別の道を歩いて ドックショーを見た。 更に 呼び物のクジャクの飛行ショーを見た。 少し小高い林の方から 見物席の近くまで100m近くを 幾つかの群れに分かれてクジャクが飛んで来る。
「オーォ アーァ--」と声を出して喜んでいた母の様子が変だ。お尻をモゾモゾ動かしている。 オシッコは、トイレ誘導をして うまくいっている筈だが?  その内 臭いが来た。 ああっヤッタな 下痢便だ---シマッタ---お昼の焼肉が悪かつた。 女房殿から出掛けに<おバアちゃんに油っ濃いもの食べさ せたらダメよ>と言われていたのを コロッと忘れてしまっていた。
あわてて 母の手を引き 近くのトイレに連れていった。
女性トイレに一人で行かすわけにもいかず 男性トイレで下の始末をした。 下痢便には簡易オシメは、役立たずだ。 持参の雑巾とタオルで何度も拭い・洗い 新しいオシメとパンツに履き替えさせた。 スカートは着替えを持って来ていなかったので 汚れを取り・水で濡らし・揉んで・絞り・タオルで水分を取った。
母は、手洗い場に両手をつき ジッとされるが侭にしていた。 イタズラっ子がイタズラを見つかり カンニンして といった顔であった。 この間 約10分  幸にも 男子トイレには誰も入ってこなかつた。 今日は帰っても お昼にバーベキューで焼肉を食べたことは、言わないでおこう。 幸にも(いや不幸に も)母は、喋れないから---そう決めた。





 {27} G医大柏病院/宿直室 徘徊その2

間もなく梅雨があがろうかと思われる7月下旬に入った頃 私は、会社から夜8時頃帰宅した。
私の帰宅合図・2回のベルに 玄関の扉を開けた妻がいきなり言った。 「おバアちゃんが 又帰ってこられない」 「又かっ いつ頃からや?」 「お昼の2時頃からと思うけど---」 「警察には?」
「まだ届けてません」 「もう少し待って 帰ってこなんだら 俺が電話する。 名札 洋服に縫い付けてあるんか?」 「すぐ 取ってしまわれるから--で も財布の中には 住所と名前それに電話番号書いた紙切れを入れてあります」 「そこまで見てもらえるかなー」
食事を済ませ 警察に連絡した。<それらしき人も 又交通事故の報告も来ていない。すぐ管轄区域に依頼する>とのことだった。
20分も経った頃 電話が鳴り 警察からかと思って受話器を取ったら G医大柏病院 宿直室からであった。
「おたくのおばあちゃんを、こちらで預かっています。 ウチの食堂に勤めている人が、北柏(駅)の方で 倒れているおばあちゃんを
助けたが何も喋られない。 ハンドバックを開けたら G医大の診察券があつたので こちらへ連れて来た。 診察券を調べおたくの電話番号がわかり 電話した。 直ぐ連れに来て下さい。」と云うことであった。
私は、警察に<見っかった>ことを電話した後 すぐマイカーでG医大へ向かった。 前回は東 今回は西方向だ。 北柏駅は、G医大柏病院の最寄り駅である。 我が家からは、7〜8KM離れている。 どの道を歩いたのだろう?。
G医大柏病院へは、その後も2週間おきに私がマイカーで母を通院させていた。 会社の半休をとり 2時間待ち(要領を覚え 早めに並ぶので3時間も待たな くてもよくなった)3〜5分診療は大変だが 家では殆ど喋らない母が、精神内科のW先生の質問に答えて一生懸命喋ろうとしており 又G医大へ行くことを  ことの他喜んでいるようなので 通院を続けていた。
私は、常に手賀沼沿いの景色の良い広い道を車で往復した。
母は車窓からこの景色を見覚えていて 今回の迷子(徘徊)になったのだろうか?。
 
母は、前回同様すっかり疲れ切った様子で ベンチに横になっていたが 私の声を聞き 私の方を向きニコッと笑った。
G医大柏病院宿直室の夜警の方に 助けて下さった方のお名前を聞いたが<住所も名前も言わなかった。顔は覚えている。 確か病院内の食堂に勤めている40歳前後の女の人だ>と言うのを聞き 何度も頭を下げ お礼を言って宿直室を辞した

母を風呂に入れ オカユを食べさせ 寝床に入れた。 母は、風呂に入れるといつも実に良い顔になる。 寝る前なのでオカユだったが お腹も満ちて赤ちゃんのように安らかな顔で すぐ眠った。
その後 私は、妻に「バアちゃん もう 外へ出れないように 車庫への通用門に鍵をかけたらどうや」と相談した。 「おバアちゃんの唯一の楽しみが散歩な のよ。それに歩くことが 寝たきりになるのを防ぐと信じているみたい。 私だって寝たきりになられると困ります」 「ボケに<寝たきりよりボケが良い。> とわかるのか---」

次の通院日 W先生の診察を終えてから 前日買ったお礼の菓子箱を持って柏病院の食堂へ行った。
お昼前でかなり混んでいたが 母を助けて下さったその方は、直ぐわかった。 母と視線が合い お互いにニコッと会釈していたから。 ウエイトレスをしておられた。 お皿を運んだり 注文を聞いたりかいがいしく働いておられた。 
可愛いといっては失礼か 優しい顔つきの家庭の主婦でアルバイトに来ておられるとか。
病院から帰宅の途中 母を見つけ介抱 診察券を見つけ<アラ 
ウチの患者さんだワ>と宿直室へ連れ帰って下さったとのこと。
お礼の菓子箱を差し出すと「そんなことをしてもらおうと思ってしたことではありません」と固辞される。 「では 食堂の皆さんでどうぞ」と言ったら「それでは 頂きます」と受け取っていただいた。
帰りには その方は母と女子中学生や女子高生がするように右手を上に向けて小さく振り合っていた。



 {28}  バアちゃん 市役所の主事さんみたい

5月初めの金沢帰省 足の怪我 それに続くお医者さん通い等があり あんなに好きだったデイケアセンター・和楽園の方は、行きそびれて 結局そのまま行かずじまいになってしまった。

徘徊と言うか 空間見当識障害と言うか 2回に亘る母の迷子事件以来 <他人様に迷惑をかけない かけたとしても最低限に留めるには どうしたら良いか?>を真剣に考え 妻や子供達にも相談した。
<鍵をかけて外出できないようにすることは、母の唯一の楽しみを奪う事又寝たきり防止からも できない。 名札を縫い付けても
すぐ取ってしまう。 襟の裏とかスカートの後ろ裏は、プロの方はわかつても 一般の人は失礼と思ってそこまでは見られない。 さて どうしたものか>
良い知恵が出ないまま2〜3日が経ち 住民票が要ることになり 私は、我孫子市役所に行った。 職員の方の胸の名札が、目に入った。 <母もあのような名札 を付けて 米丸公民館や金沢市役所で主事や母子相談員をしていたなぁ>---ハッと思った。 母は、公民館や市役所に勤めていることを非常に喜び又ある意 味では天職のように想い 誇りにしていた。 ひよっとすると あのプラスチックか塩ビ製の小さな名札は、本来の名前表示であると同時に 何か誇りの標章め いたものであつたかもしれない。
市役所の帰りに大手スーパーの中の文房具店に寄り 小型で透明なプラスチック製のネームプレイト・ホルダーを2ヶ買い求めた。
帰宅して 紙に名前と住所・電話番号そして血液型を、製図用の文字でできるだけかつこ良く書き ホルダーに挿入した。
早速 母の部屋へ行き母に見せた。 そして洋服の右胸あたりにピンでとめた。
「バアちゃん かっこいいヨ。公民館か市役所の主事さん みたいや」と少し大袈裟に褒めた。 母は、それを聞いてニコッと笑った。そして昔を思い出したのか右の胸を 少し前へ突き出すような仕草をした。
戦時中のような名札は、かつこ悪い だから縫い付けられたものでも引きちぎる---プラスチックのネームプレイトは、かっこ良い だから付ける。 そんなことなのかどうか わからないが。
それ以来 母は、名札を付けて外出・散歩した。
洋服を着替えて 名札が付いていないと自分で付け替えした。
私は、逆転の発想と言えば 一寸オーバーだが うまくいったことで ニヤリとほくそえんだ。




 {29} 家の中 泥だらけ

我孫子地方の土は、関東ローム層とか言われる。 富士山の大
爆発で積もった火山灰だ。実に細かい粒の黒い土である
乾燥した日が2〜3日続き南から強い風が吹くと 部屋の中が、土埃だらけになることが多い。
8月の盛夏を迎え 我孫子の家は、2階までもこの土ぼこりが入り込み 妻は掃除をするのにおおわらわである。 母の部屋が特に凄い。
この土ぼこりに加え 母が日に3度も4度も庭に出 裸足で庭や私が作っている一坪農園を歩きまわり そのまま部屋に入るからである。私が作った・戸袋の鉄パイプの手摺りを 母は、両手でしっかり握り体を180度方向転換し ブロックの中段に右足を付ける。
次に両足をつけてから靴かツッカケを履く。それから更に一段下の地面に降りる。これが母の動作であった。
それが近頃ではツッカケすら履かず 裸足である。
(外出する時は ビニール靴を手に持ち 道路へ出てから履いている。それもかかとの部分を踏み潰しスリッパのようにして--。)
庭に出ると 西と南隣の家庭菜園農作業を飽かずに見つめたり庭の草むしりをする。 
この草むしりは、母の若い頃からの癖みたいなもので 忙しい時でも寸暇を惜しんでやっていた。 今は、時間はいくらでもある。
だから気のすむまで草むしりをしても良いのだが 困ったことに
雑草と花壇の草木や一坪農園の野菜の幹や芽の区別がつかないらしい。
さすがに綺麗な花の咲いているものは、引き抜かれたり千切られたりしないが 妻が大事に育てている草木がひっこぬかれたりして よく妻が憤慨していた。
そして「アアーッ! それは 大事なお花ヨ おバアちゃん むしらないで!」と悲鳴に近い声を2〜3度聞いている。
母が、庭に出るのは 道路に出て外出する為・隣地の農作業を見る為・草むしりをする為だけではないらしい。どうやら 生理現象の用足しにも使っているらしい。
時間を見計らって 妻が1階のトイレへ行くように言い又は手を引いて連れて行く等 トイレ誘導しているのだが---。
真夏で水を欲しがった。糖尿病のせいもあり よく水を飲んだ。それも 大きなヤカンに自分で水道の水を汲み その水差し口に口をつけて飲んでいた。 この 予定外の小の用足しにトイレに行かず 庭にでる。 特に大は、家の中より外の方でするのが好きらしい。 西側の竹の植え込みに干からびた残滓が無造作に放 り捨てられている。それも大量に。
対策がとられた。 先ずブロック積みの中段足場と広縁入り口部分に30cm幅х45cm長さのゴム製の人口芝マットレスを置いた。広縁には水の入ったバケツと濡れ雑巾が 常に置かれ 母には庭から部屋に戻る時必ず足を洗い 雑巾で拭くように教えた。
次に履き易いように大きい男物のゴム製サンダルを用意し 必ずこれを履くように強く言いつけた。
妻がホームセンターからサッシ用ベルを買って来 私が広縁のアルミサッシの出入り口側上部にとりつけた。これは 母が、ソーッと開けるので アルミサッシュの軽快な音が聞こえない。
妻が、「アッ 今おバアちゃんが外へ出た。 アー 今帰ってきた。」とわかるようにしたいということからのものであった。
残念ながら これらは殆ど効果がなかkつた。かえって2枚のゴムマットや雑巾を洗う手間が増えたぐらいだ。
母は、ゴムマットの上で足の泥を落とす仕草をしない。雑巾で足を拭くということをしない。 サンダルは履こうとするが 足の指がどこかにつかえサンダルが引っくり返ると もう履こうとしない。
「バアちゃん ダメやがいね 又裸足で庭へ出て 家の中泥だらけやがいね---ちゃんと雑巾で足を拭いてから 入るまっし」 1週間目位には足を少し強めに手で叩いて覚えさせようとしたが---母は、エヘヘとかヘラヘラといった笑い顔を見せるでけで何ら
効果がなかった。 サッシベルの方も 我々が或る程度勢いをつけて戸を開けると 大きな音がするが 老人が静かに開けると
ベルはそんなに音を出さないことがわかった。

毎週土曜日の朝 母の部屋の電気掃除機がけと畳・広縁の板を丹念に雑巾がけが、私の仕事に加わった。
加えて この頃から母の敷き布団を近所の布団屋さんに持って行き布団丸洗いをお願いした。 半年に1回位---。




 {30} 母子のレジャー行

母が我孫子に来て約1年 本当にいろんなことがあった。 これまでに書いたこと以外にも いろいろある。
母子の名所旧跡巡りも続いている。
平成2年の主なものは、佐倉及び歴史民族博物館から始まり成田山・筑波山ドライブ・東京の湯島天神・東京国立博物館・浅草の隅田川下り・浜離宮・奥日光一泊ドライブ・本土寺のアジサイ見物・水元公園と柴又帝釈天・那須一泊ドライブ・葛西水族園・日比谷公園と靖国神社・秩父ドライブ・我孫子鳥の博物館で終わるが
---手賀沼は近いこともあり何度も一周ドライブをした。
相も変わらず母と私の二人連れである。
時々妻や子供達に「一緒に行こう」と誘うが「お二人でどうぞ」と断られてしまう。
母は、殆ど喋らず 車の中では眠りもせず車窓の景色を食い入る
ように見続けている。
一泊ドライブでは、まるで勝手知ったる温泉旅館のように女湯を捜して入る。 出てくる時は、浴衣そして丹前がピシッと決まっている。 上気した顔・髪を手入れしてから正座して夜のお膳に向かい静かに黙々と美味しそうに食べる。
知らない人は、アルツハイマー病の人とは思わないだろう。

月に一度 母・私・妻・長女・長男の一家5人で<家族外食>と称し我孫子市内のファミリー・レストランへ夕食を食べに行く。
費用は、母の勘定から支出する。
帰りがけ 皆で「オバアちゃん ご馳走様でした」と言う。すると ニコッと笑って少し頭をかがめ会釈する。 多分 母のオゴリということ わかっているのだろう。

こうして 平成2年も大晦日を迎えた。
私の日記張に次のような数行がある。 <バアちゃんのお蔭か?
−−息子・壮一が大学卒業して働き出した為か?--お金にゆとりがある。 巨額の住宅ローン返済や株式の大暴落で大怪我をしているにも拘わらず---だ。 実にありがたいことだ。
又 女房殿 一年前とはうって変わって明るくなった。
バアちゃんの世話にも慣れた為か?---。


ぺーじ6 {31}に続く


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