{31} 一人で着たんか 帯まで締めて
1991年(平成3年)の元旦は、珍しく雨だった。 12月・1月太平洋側の我孫子は、晴れの日が続く。ミゾレ・雪が多い日本海側の金沢とは対照的である。そういう意味で珍しいことであった。
前日・大晦日の夜 NHKテレビの「紅白歌合戦」や「ゆく年・くる年」を年越しソバを頂きながら見て 深夜の就寝となるので 元旦は10時過ぎ 朝食兼昼食というのが我が家の常である。
「おめでとうございます。今年もよろしく 」と家族同士で挨拶 お雑煮と妻の手料理を頂く。
バアちゃんは、自分の部屋で一人で食べた。
可哀そうだが 皆で頂くお節料理に むせかえりプーと食べ物の粒を吹きかけられては かえって皆から嫌われる。
母の部屋の襖を開けたら 小さなテーブルの前に正座してお雑煮を フーフー息をかけながら食べていた。
「おめでとう お雑煮美味しいか? お餅喉にひっかからんようにしまっしね。 アアーそうや 今日は元旦やし 昼から柴崎神社と子の神大黒天へ初詣に行くから その心算で用意しとくまっしね 」 わかったのかわからないのか 反応なしだった。
お節料理を上手に箸で摘まみ上げ 美味しそうに食べていた。
柴崎神社も子の神大黒天も我が家が氏子というわけではない。
どちらも我孫子では古くからの神社仏閣で近在の多くの方が、初詣に行かれる。 東京の明治神宮や成田の新勝寺は、毎年凄い人出だから敬遠し 同じ我孫子の両社に行くというなが 10年程前からの恒例の行事になった。
2時少し前 「バアちゃん そろそろお参りに行くヨ」と声をかけ母の部屋の襖を開けて 吃驚した。
母が、和服を着て鏡台の前に座っている。
何と言う柄で どういう着物なのか 和服オンチの私にはわからないが 小さな模様が沢山入った どちらかと言えば白っぽい和服で羽織も同じものである。 母も気にいっているのか これはといった催事や大事な会合には殆ど着ていた。
白足袋も履いていた。 髪は正月前に行き着けの美容院で セットしてきている。 化粧こそしてないが口紅を塗ったようだ。
10歳も15歳も若返った 年輩の上品なご婦人 といった感じである。ピシッと決まっている。
「バアちゃん 着物 一人で着たんか? 帯も一人で締めたんか? 」 母は、黙って 床柱に掴まりながら立ち上がりハンドバックを取った。
床の間には 正月に必ず掛ける「初日の出」と「お前100まで私ゃ99までの老夫婦」の目出度い掛け軸が、掛かっていた。
この母 本当にボケているのだろうか?。
後で 着付け資格の免許を持っている妻に「手伝ったのか? お母さんが着付けしたのか?」と聞いた。「いいえ」との答え。
妻も驚いていた。 やはり母が一人で着たんだ。感心しつつ よく見ると 帯が少し傾がっている。 足袋も爪が止まっていないところがある。
紙オムツをしたのかどうか 私は一寸気が引けて 妻に見てもらったところ ちゃんとしているとのこと。 お腰とか下襦袢というものも ちゃんと付けていると聞き 私は、思わず「ウウーン」と唸ってしまった。
天王台駅北側 国道6号線近くの小高い丘に柴崎神社がある。
日本武尊が東征の折立ち寄って武運長久を 又平 将門も祈願したという古い神社である。
雨があがった為か着飾った人達が、石段下まで長い列を作っていた。 私達一家4人(長男の壮一は、例年年末年始スキーで 家に居ない)は、20分待つて社殿で神主さんのお祓いを受けた。 妻と長女の真紀を車で家に送り 母と私だけが子の神大黒天へ行った。何故か彼女達は、子の神大黒天をお参りしない。
一寸余談になるが 壮一は、我孫子中学生の頃先生から 成田山新勝寺は 平 将門の調伏を願って建てられたと聞き 決してお参りに行こうとしない。 生粋の我孫子っ子と言うわけでもないのに−−我孫子の人達は、我孫子に将門の遺跡も多く
将門びいきの人が多い---こうした類かどうか 彼女達は、子の神に行こうとしない。 そのくせ大黒天の小さな小判(100円で3枚頂ける)は、1枚ずつ私から貰い お金が増えますようにと 自分の財布の中に入れている。
子の神大黒天は、手賀沼の真ん中あたり 県道・船橋取手線の手賀沼大橋や我孫子高校を見下ろす小高い台地上にある。
ガイドブックによれば 10世紀中葉 下総国分寺が戦乱で焼かれる恐れがあった時 尊像・重宝が各地に疎開 そのうち子の神将と大黒天尊像が我孫子に落ち着いた由。
腰下の疾患に霊験あるとして ブリキの草鞋が奉納される。
「柴灯護摩」といって山伏姿の僧侶や信者が、呪文を唱えながら お札を燃やした 未だ火の残っている跡を裸足で歩き渡る行事もある。
この子の神は、相馬霊場88ヶ所の内第38番 この宿坊で同所にある延寿院が第43番である。 尚延寿院は、「ボケ封じ関東33観音霊場」の第2番でもある。
お正月は、2時間毎に護摩が焚かれる。 母とわたしは、元旦最後・午後3時のお護摩であった。 赤い僧衣を着た若い僧侶が、太鼓を叩きながら般若心経を繰り返し唱える。住職が護摩壇で見事な護摩の火を焚かれる。 排気が悪いのか火勢が強いのか煙が、外陣に詰めた我々80人位の信者や参詣者を取り囲む。 「ハイ どうぞ」という住職の声で一列に並び護摩壇を一周 お参りをする。煙の為 涙を流しながらである。 途中 護摩木を一本取り腰なり、足なり、手なり自分の治したいところを撫でてからその木を護摩の火中にくべる。
母は、護摩木を取ったものの どうしたら良いかわからないようだった。私が、その手ごと頭をなでて「よくなりますように」と言ったら 母もオウム返しに「よくなりますように」と言った。私は、近頃一寸痛くなることのある右足を撫でて火の中へ入れた。
ご本尊や諸像を拝み出て来ると、大黒様の姿・お面を付けた方から100円で3枚の小さな小判を頂く。
更に面白いのは 全員の護摩壇巡りが済むと 子供を除き3列に並び太鼓の合図でご神酒を3人1組一斉に飲む。 この時全員が「おめでとうございます」と大声を出し 盛大に拍手をする
慣わしである。
護摩札を頂き退出する折 等身大のボケ封じ観音菩薩像の前でお参りをする。そしてボケ封じの枕カバーを買った。丁度通りかかったご住職が、母の頭に軽く手を触れてから母に向かって合掌 拝んで下さった。 ほんの6〜7秒であったが 何か暖かいものが湧き上がった。
でも何故 ご住職は、母を拝んだのだろう。枕カバーを買ったのは私であり この日母は、一寸貴婦人みたいであり 知らない人にはボケとはわからない筈なのに---。
やっぱり宗教界・精神面の司には、外面のみならず内面のことがわかるのかしらん。
その夜から 母は、しっかりこの枕カバーをして眠った。
{32} 迷子はどっちだ
成人の日 お天気が良かったので 母の散歩に私も同道した。そして危険度の少ない道約1KMを選び「これからはこの道を歩くまっし」と教えた。
母は、少し痩せたようだ。 もっともしっかり太っていたので 普通になったと言うべきか。
前回のようにゆっくり歩くのを覚悟していたのだが なんとサッサ サッサと身体を前かがみにして歩く。 決して遅くはない。
「バアちゃん はやく歩けるようになったネ」と言うと褒められたと思ったのか 尚一層早く歩こうとしている。
道を覚えてもらう為 帰りは母を先にあるかせて私が後から付いて歩いた。 一ヶ所間違えかかったがそれ以外は しっかりしたものである。 今回の散歩コースは、距離も短く比較的車の少ない道路であり きっと大丈夫だろう。
母は、我孫子に来て15ヶ月 かなり落ち着いてきた。 アルツハイマー型痴呆というか やや良くなって来たように思える。
妻は、薬を母に必要最小限しか与えない。食事も適量しか与えない。 金沢に居た頃 母は、お医者さんから貰った薬を 几帳面にというか馬鹿正直にというか 全部を飲んでいた。血圧の薬・糖尿の薬・神経痛の・風邪薬・その他何の薬かわからないものを---又ボケてからは自制することなく 食べ物は、次から次と無くなるまで食べていた。
妻の指導が、うまく行っているに違いない。 ヒョットすると不治の病・アルツハイマーも直るかもしれない。 そんなことを思ったりした。
隣町の柏市に<柏健康センター>がある。 大きなお風呂・熱いのやぬるい風呂・滝風呂・ジャグジー・サウナ・トルコ風呂もある。小劇場・食堂・仮眠室・マッサージ室もある。
1月末の寒い日 お風呂の好きな母を連れて行った。
女湯の係りの女性に「少しボケているので よろしく」と、母のことを頼み、私は男湯の方へ行った。
20分位で出て 暫く休憩室で休んだ。
母は、若い頃から長風呂で 1時間以上入っているのが常だ。
1時間が過ぎた頃 私は女湯の出入り口横の長椅子に腰掛けて母を待った。 20分経っても出て来ない。 先に出たのかもしれないと思い 食堂・演芸場・娯楽室を一回りしたが居ない。
30分経過。ひょっとしたら浴槽の中に沈み込んだり 人目につかない場所で倒れているのではなかろうか と不安になってきた。男の私が女湯に入るわけにもゆかず---丁度来られた係りの方に頼んで見てきてもらった。 「そのような方は、おられません」という返事だった。 45分経過。
エライコッチャ---ボケバアちゃんが迷子になった。 もう一度広いヘルスセンターを1階,2階と見て回った。 居ない。
その時 館内アナウンスがあった。「みずかみ ひろしさま 水上 博様 お連れの方が 1階ロビーのカウンターでお待ちです。 繰り返します---」 あわてて 1階ロビーへ行ってみると 母がちゃんと洋服を着て ハンドバックとステッキも持ちカウンターに寄りかかりながら立っているではないか。そして私を見つけて
ホッとしたような顔をした。
「バアちゃん 捜したがやぞー 迷子になったかと思うて--」 否
迷子は、どっちだ 私の方なのか?。 少なくとも 母は<みずかみ ひろし>と私の名前を声にした--だからこそ 館内アナウンスとなった。 カウンターの若い女の子が クスクスと笑ったような気がした。
その後 演劇場の長テーブルに坐り軽食をとった。母は、きちんと正座して カラオケ大会で次々飛び入りで歌う人達の歌を、楽しそうに聴いていた。
バアちゃんは、お風呂が好きだ。 お風呂上りには上気して 実にいい顔になる。 お風呂で身体が温まり血行が良くなる。
それで 物忘れがなくなる。ボケが無くなる。 そんな三段論法を試みてみた。 当たらずとも遠からじか。
まだらボケ という言葉がある。正常に近い状態とボケの状態を行ったり来たりすることを言うようだ。
最近の母は、軽度の状態と言えるのではないか。
{33} 金沢帰省−−深夜のお座敷徘徊
平成3年3月下旬 3泊4日の予定で母を連れて金沢へ帰った。
今度は 駅の階段の昇り降りが無理だと思われたので私の車・リヴェルタビラで行った。
雪の心配もあり タイヤ・チエンを準備していたが 関越トンネルの出入り口付近に少し残雪があった程度で 全行程550KM 快晴に恵まれ快適なドライブであった。
母は、例によって一睡もせず 車窓から景色を食い入るように見つめている。 「きっと 敏夫や静子が、バアちゃんの顔を見るのを楽しみに 待つとるぞー」 「---」 「今晩は 敏夫の家で
泊まるがやぞー」 「---」 時々話しかける私の言葉に反応はするが返事は無い。 でも金沢へ帰ることは、よくわかっており
ウキウキ楽しそうなのが 態度でわかる。 11ヵ月振りの帰省である。
関越自動車道・北陸自動車道のサービスエリアは、結構景色の良い所にある。 疲れたら休み 時々トイレ誘導を行う。
トイレは、身体障害者専用の設備が整った広いものが完備されており ありがたい。 男性女性を意識することなく 身障者と介添え人が一緒にはいれる。
夕方弟の家に到着 大歓迎を受ける。 やがて妹夫婦も駆けつけ 夕食を共にしてワイワイガヤガヤが始まる。
母は、皆の顔を見て ニコッ ニコッと笑顔を見せている。でも 何も喋らない。 弟が自分を指差して「この人 だーれ?」と言った。 「−−−敏夫や」母が、答えた。
期待してなかった母の言葉に皆が驚いた。 弟が、最も驚きかつ喜んだ。 母との会話 自分の名前を認識してくれていたことの確認---そんなところだろうか。
今度は妹が、弟と同じ仕草をして「この人 だーれ?」と尋ねた。母は、<何をわかりきったことを質問して>と言った感じで ちょっとうるさそうな顔をし 暫く黙っていたが 妹が何度も言うと「---静子や」と答えた。 妹の顔が、みるみる喜びに満たされていった。
翌日 鈴見へ墓参りに行った。
金沢大学キャンパスの角間移転ーーその道路拡幅による土地区画整理の為墓地の再移転が行われた。 この新しい水上家の墓所を見るのが、今回帰省の主目的である。
墓地全体は、そんなに移動していなかったが 我が家の墓所は
当初あった 鈴見村からの入り口右側南向き(一等地?)から50M離れた東北側西向きの位置に変わっていた。 弟が、クジ引きで決まったもので仕方がない。 でもすっかり整然と区画整理され 以前のようなジメジメした暗さが無い。明るく近代的だ。
見慣れた3基の墓石に 母は、ひざまずき無言でお参りしていた。 それから親戚回りをした。 母は、アチコチで歓迎され 嬉しそうに笑顔を振りまいていた。
野々市の私の妻の実家は、和菓子の製造販売をしている。この日 季節の和菓子をお茶うけに出して下さった。 それを見て
母が「桜餅や」と小さな声でつぶやいた。 この日母が喋ったのは、この一言だった。でもこの一言で「さぁ食べまっし 食べまっし--」と薦められ ピンク色の薄皮で粒餡を巻き込み桜の葉で覆った桜餅を 5個は食べた。 歯の無い口をきように動かし 美味しそうに食べた。
3日目の夜は、再度弟の家に泊まった。 8畳のお座敷に母と私が寝た。 続き間の6畳にポータブル・トイレを置いた。和式では不都合なので 前以って頼んで買ってもらった洋式のものだ、
何か 重苦しいさを感じて 目が覚めた。 私の掛け布団の上に母が乗っている。四っん這いになって---。
「どうした バアちゃん オシッコか?」 あわてて隣の部屋のポータブル・トイレに座らせた。 時計を見たら12時だった。
<今日アチコチでお茶や飲み物を沢山頂いたから 夜中にオシッコしたくなったのだろう---それにしても何で私の上に乗っていたのか 手で揺り動かし起こせばよいものを> 暫く待つたが小用の音が無い<アレッ 俺の勘違いか>と思い直し 母を寝かせ 私も眠った。
今度は急激な重圧感で ハネ起きた。<何だ!?> 豆球の薄明かり中で目を見張ると 母が四っん這いになって 私の寝ている上を乗り越え モゾモゾと8畳の部屋を這い回っている。
「徘徊」という字でなく「這廻」という字がピッタリだ。 2回りぐらいして 床の間の前で止まった。 様子が更におかしいと思った。<しまった オシッコだ> 紙オムツを通して畳の上に流れている。
バケツに水、雑巾・タオルで後始末 15分もかかったろうか。 母を落着かせ 寝床に入れ 私も眠いまますぐ眠ってしまった。
またまた急激な重圧で目が覚めた。 またしても母が、四ッん這いで部屋の中を這い廻っている。 <ブルルッ--->実の母親とはいえ気色が悪い。薄気味悪さに ゾッとする。
続き間の襖を少し開けてあったところで急に立ち止まった。 ジョ ジョーと小さいが水の流れる音が聞こえた。
<しまった またオシッコだ。 さっきオシッコしたんだから朝まで大丈夫と思い 紙オムツをさせなかった> 時計は5時を指していた。 「バアちゃん しっかりしてくれヨ 何時だと思うとるがいネ 眠れんがいネ 明日は会社へ行かんなん 今朝は、早起きして我孫子まで車走らんなん それながに 何べんも何べんも起こして エエッ もう---」 つい大声をだし母のお尻を平手で 叩いてしまった。 母は、叩かれて何かツキ物が落ちたような キョトンとした顔をしていた。
後始末をして母を再度布団に入れたら 3分も経たぬうちに軽い
イビキをかいて眠った。 私の方は、興奮して眠れなかった。
このところ失語症以外は普通の人と思えていたのに やっぱり
ボケている。 これが アルツハイマー痴呆症なのか。
6時半 目覚まし時計で起こされた。母を起こし 7時我孫子へ向かって出発した。 出がけに弟の嫁が、暖かいオニギリの包みを渡しながら「お兄さんも大変ですネ」と小声でいった。 きっと夜中のこと 殆どわかっていたんだろう。
{34} 象さんの爪−衛生
母が我孫子に来て すぐの頃 手や足の爪が伸びると自分で爪を切って居た。 大・中・小の爪切りがあるにも拘わらず 裁縫用の裁ちばさみを使って---。
「バアちゃん 爪切りあるがに−−爪切り 使うこっちゃ そんな
裁ちバサミ使うて危ないがいネ」と云うと爪切りを手にとることはとるが すぐに投げ出してしまう。そして又裁ちバサミで 足の爪を切ろうとする。
危ないのと切り跡の仕上がりの悪さから 見かねて私が、母の爪切りをすることになった。 2週間に1度の頻度で 陽射のある時広縁で手と足の爪切りをする。
母は、どうやら私に爪を切ってもらうのを楽しみにしているらしい。「また爪が伸びている 爪切るヨ」と声をかけると いそいそと広縁に来て 手を差し出す。 爪切りとヤスリで綺麗に仕上げる。ところがである 我孫子に来て1年経った頃から足の爪、特に親指の爪がだんだん厚くなってきた。 3〜4mm以上にもなる。
「バアちゃん 庭を裸足で歩くからか バアちゃんの足の爪 爪と言うより<ヒズメ>や いや象さんの爪みたいだヨ」 声は出さなかったが エヘヘと母が、テレ笑いしたようだ。
会社の上司のUさんのご母堂も ややボケておられ Uさんが爪を切っておられるらしい。 Uさんに聞いたら やっぱり<ヒズメ>だとのこと。年老いるとそうなるのか それとももっと頻繁に爪切りし手入れをしてあげるべきなのだろうか?。
髪の毛の方は、Sと言う理容兼美容院へふた月に1回ぐらいの頻度で行っていた。 散歩道の途中で自分で見つけたようだ。
我が家から300Mのところだ。
1年ぐらい経ってからは 妻が電話で予約し 約束の時間に連れて行っていたようだ。 この頃ではSまで歩いて往復1時間以上もかかり 髪きり・洗い・セットに1時間 合わせて2時間以上
とても付き合っていられない とのこと。 結局 私がマイカーで
連れて行き 1時間後に又車で連れて帰るようになった。
我が家のお風呂は、一寸大きめの洋式バスである。 お湯の落し込みと追炊きができる。
我が家では--最年長である母に初湯を使ってもらうのが、本来である。しかしお漏らしのことがあるので いつしか終い湯を使うという順番になった。 それでも お風呂が大好きな母は、満足げに長風呂を使っていた。
それが1年を経た頃から 足腰の衰弱の為と思われるが 浴槽の中で溺れそうになったようだ。 僅か50cmの深さで--。 それ以来 お風呂が怖くて 入ろうとしない。
妻が、庭用の椅子を買ってきて流し場に置き 母をこの椅子に座らせて妻が、石鹸を使ったり お湯をかけたりして入浴させていた。 しかし この頃 母はやや痩せて来たとはいえ 妻より一回り大きく 体重も妻よりかなり重かった。
妻の手に負えないと言う。 従ってこれ又 私の仕事になった。
私が入浴した後パンツ1枚を身に付け母を椅子に座らせ 母を洗う。だが母は、浴槽に入るのを嫌がり-- 一苦労だ。
手摺りをつけようと考えたが 大がかりな工事になりそうだ。 且つ それ程効果があるとは思えなかった。
もっと後のことだが 柏の<福祉医療サービス>に使い捨て失禁パッドを買いに行った折 サーフィンの板を小さくした塩ビかプラスチック製の浴槽渡し板を見つけた。 これだ とひらめいた。
その帰り ホーム・センターへ行き 長さ90cm,幅30cm厚さ3.5cmの合板を買ってきた。
我が家の浴槽の内のりに合わせて 止め歯を嵌め込み 手摺りも付けた。 私の得意の日曜大工が物を言った。
丸みをつけ 充分滑るように丹念にサンドペーパーをかけた。この<老人入浴用渡し板>とでも名付ける板は、大成功であった。浴槽の両側にこの渡し板を架け 洗い場側の端に母を座らせる その時反対側の手摺りを掴んでもらい身体を安定させる。次に左足を浴槽に入れ お尻を半回転させて右足を浴槽に入れる。続いてお尻、腰と渡し板に寄りかからせながら 浴槽内に
しゃがみこんでもらう。胸まで入ったところで渡し板が邪魔になれば はずせば良い。
母は、安心して首まで湯につかり満足げであった。
浴槽から出る時は、入る時の逆を行えば良い。
我れながら上手く行ったと思う。 妻に「これで実用新案か何か特許を取って売り出せば 世の人々に喜ばれ 私も儲かるかもしれん」と言ったら 「アイデアの殆どは、福祉医療サービスにあったもの。せっかくですが儲けれません。 ひょっとしたら アイデア盗作ということで逆に お金払わないといけないかも---」と言われ ギャフンでした。
{35} スーパーのアイドルが 店頭ウンチは困ります
平成3年5月子供の日 スーパーKから電話がかかってきた。
「お宅のおバアちゃんがお店の中でウンチをされました。すぐ連れに来ていただけますか」 「ええっ!! お店の中で!?申し訳ありません すぐ行きます」 丁度電話に出た私は、雑巾セットと母のパンツ・着替えを用意しマイカーでスーパーKへ急いだ。
サービス・カウンターで何とも情けない顔をした母が、赤い制
服を着た女の店員さんに付き添われて立つていた。
「ご迷惑をかけ 本当にすいませんでした」 「いいえ いつも来ていただいて有難う御座います。 ただお店の中で でしたので
吃驚しました」 「それで 後始末をさせていただきますが--どこでしょうか?」 「ああ それは店長が済ませましたので結構です」 「そうですか それは重ね重ねご迷惑をかけました--店長さんにご挨拶させていただきます」 「店長は、その後 外出しましたので--よろしいです。 このおバアちゃんは、この店のアイドルなんですヨ---ねえおバアちゃん--」
優しい店員さんが、母に向かって笑いかけた。 すると 母もニコッと笑い返し 胸のあたりで右手を小刻みに振った。
母のスカートや下着は、不思議に汚れていなかった。 ということは お店の中でしゃがみ込んだのだろうか?---それ以上詳しいこと聞くわけにも行かず 何度も頭を下げ 母が買った菓子パンの代金を支払い車に乗った。
<かなり大きなスーパーだが 店長ともなれば男でもお客のシモの始末までされるのか?>と感心すると共に<申し訳ない>と心の中で 手を合わせた。
ウンチの話のついでに---このことのあった2ヵ月程後のことである。母が、桐の和タンスの引き出しを開けて懐紙に包んだ物を まるで宝物のように 大切そうに両手で捧げて私に見せようとする。
「オオッ バアちゃん 何やなー えらい大事そうに 持って--」 母は、おもむろに片手で白い紙を開いた。 「ウウーン これ何や---ヱエーッ バアちゃん これウンチやがいね!」
直径3.5cm長さ12cm以上もあったろうか---確かに立派なものだ。しかしウンチの宝物とは!。
ボケ老人の行動の中には<奔便>という文字通り大便をもてあそぶものがあり 時には食べることもある と本で読んだことがある。 母は、そこまではしていないようだが。
引越ばかりで相当ガタがきている、しかし大事にしている嫁入り道具の和タンスの中にしまい込むとは---それをワザワザ開いて私に見せるとは。
「バアちゃん これは汚い。 宝物なんかじゃない。こんなこと二度としたらいかんがやぞー」 私は、それを母から取り上げ 1階のトイレへ持って行った、
かなり日時が経っているのか 臭いは無かった。
母は、変な顔をして私を見ていたが スグこのことを忘れたようだ。 その後タンスの中にこの種の宝物は、出現しなかった。
{36} 「老いへの対応を探る」催し
我孫子市の広報及びチラシにより 我孫子市・教育委員会・社会福祉協議会他の共催による「老いへの対応を探る」催しがあることを知り 母と私は、2回参加している。 いずれも我孫子市民会館で行われ 約500人収容の大ホールが満席の盛況であった。
第5回は平成2年9月1日(土)に行われ 映画「痴呆老人の世界」の製作者・羽田 澄子さんの講演とその映画上演であった。
見られた方も多いと思われるので内容は割愛するが 講演の中で羽田さんが「痴呆性老人は、何もわからない と思われるのは間違いである。老人達は、人の好意や悪意には敏感である」と言われたのが非常に印象的であった。
私も母を見ていて まつたく同感である。 相手の言葉の内容や難しいことは、確かにわからない 理解できないことがあるが
相手の喜怒哀楽・感情は、実に敏感に伝わり 笑ったり怯えたりする。
第6回は平成3年9月8日(日)に行われた。「達者で暮らそう この街で」と言うテーマが付いていた。
「高齢者・体の不自由な方のためとファッションショー」と無着 成恭氏の講演・「食べること・生きること」の2本立てであった。
ファッションショーでは、車椅子に乗った若い女性がウエディングドレス姿で現れ 極く短時間にお色直しで和服に着替えしてもらうのが素晴らしく 会場の万雷の拍手を得ていた。
高齢者は、いかにもジジむさく・ババくさい衣装ではなく やはり
社会の構成員の一人として明るく若若しいファッションのものを着ることが望ましいと思った。 それにより自分自身も精神的・肉体的にいかに若返ることができることか。
社会の構成員は、自分を見る相手に決して不快な感じを起こさせる服装をすべきではない。 高価なものでなくても良い 清潔で良い雰囲気・調和のとれたものが好ましい。
無着先生の講演も巣晴らしかった。 常にニコニコ笑い 身振り・手振りで舞台をあちこち動き回られてのお話であった。
私の隣の席の母は、微笑みながら最後まで見聞き入っていた。
平成3年9月頃の母は、かなり痩せて来た。 足腰もすっかり弱くなり 先導者が、引っ張りかげんに手を引かないと普通に前進できないようになっていた。
この日 私は、母の手を引き会場に併設された 痴呆・寝たきり老人それに身障者の為の介護用品や機器・住宅設備等の展示を見て回った。 成る程 こんな便利なものもあったのか 住宅には段差のないものや将来手摺りの取り付け可能な下地作り等に感心したり 覚えておこうと思ったことがいくつもあった。
比較したわけではないが 我孫子市は、こうした催しをいくつか行い 社会福祉事業にかなり熱心であるという印象を強くした。
{37} 寝たきり老人等福祉手当
前章「老いへの対応を探る」催しで貰ったパンフレットの中に 我孫子市には「寝たきり老人等福祉手当」という制度が、あることを知った。
平成3年9月下旬 我孫子市役所 高齢者福祉課老人福祉係を
尋ね 詳しいことを教えて貰い 母が該当するらしいとのことで手続き書類一式を頂いてきた。
対象者は、<65歳以上の寝たきり又は痴呆症状が概ね6ヶ月以上継続しており 介添人がなければ日常生活において自用を満たすことが著しく困難な者を居宅又は病院で介護している者>とある。我が家では、母が対象者で妻が主たる介護者ということになる。
住民票の謄本とお医者さんの診断書が必要で 我孫子市に認められれば毎月11,250円が4ヶ月分まとめて 年3回対象者に支給されるという内容であった。
我孫子市指定様式・<重度痴呆性老人介護手当診断書>を持ってG医大柏病院を訪ね 証明をお願いしたところ快く記名捺印して下さった。
そして同じく指定様式の<我孫子市福祉手当支給申請書>を記入 診断書と住民票を添付して我孫子市に提出した。
10月末 我孫子市長さんの支給決定通知書が届いた。
母が、この年の12月末に あっけなく亡くなったので 妻が市から頂いたのは2ヶ月分であった。
もっと早く知っていれば といった気も無くはないが<寝たきり老人等>という文言から 私の母は、寝たきりではない かなり弱って来たが未だ歩けるのだからという制度の内容の認識違いがあった。 でも金額のことよりもこうした制度があること自体
高く評価したいと思う。
国際ボランティア・チャリティ募金のテレビ番組の中の言葉に「愛は、お金では買えない。でもお金に託すことはできる」というのがあった。 我孫子市の福祉行政に 何かこの言葉を重ね合わせて思い出された。
我孫子市から手続き書類を貰ってきた時 同時に<寝たきり老人等短期保護申請書>というものも頂いた。 これは、ショート・ステイとも言い 介護者が冠婚葬祭・旅行・疾病その他で介護できない時 市指定のセンターで8日以内 対象者を預かってもらえる と言う制度であるとのこと。
これは有難い 是非活用させて頂こうと思っていたが 使うことは、なかった。
{38} テレビ見たら ちゃんと寝るがやぞー
平成3年10月に入り秋本番 私が冬至芽から育てた菊も 花芽をつけだした。
母が、散歩・外出をしなくなった。 せいぜい日に1〜2回 庭に出るくらいだ。 食も細り 体も痩せてきた。 お風呂で見る母は、あの豊かな胸は、何処へ行ったのか。乳房は垂れ下がり あばら骨が見える 骨盤・腕・脚いずれも骨ばかりが大きく見える。 私の出勤前と帰って来てからの2回 ポータブル・トイレに抱き上げ 座らせ 前に買ったセーフティ・アームを握らせ 大小便をしてもらう。 セーフティ・アームには湯上りタオルをかけて 丸見えにならないようにしている。
その間は紙オムツであるが この頃は殆ど汚れていない。
「ハァーイ バアちゃん 良い子だからネ ハァーイ おしっこして
ー」 早い時は2〜3分 時には15〜20分かかることもある。
遠い昔 私が赤ん坊の時 母が、私におしっこをさせていたんだろうにーーフト そんなことを思ったりした。
この頃は殆ど一言も喋らない。
耳はよく聞こえるようだ。 眼も離れた所は、良く見えるようだ。
夜9時頃布団を敷き 母を布団に入れ テレビを点け 1時間で切れるようにタイマーをセットする。 「バアちゃん テレビ見たら ちゃんと寝るがやぞー」 私がそう言うと すぐテレビの方に顔を向け直し 真剣に見ている。
母は、テレビが出始めた頃 町内でも1台か2台しかない頃 無理をしてテレビを買い求めた。 以来今日まで テレビを見るのが何よりの楽しみとなっていた。
ただこの頃のテレビは、惰性で見ているだけで内容はわかっているのだろうか。 漫画でもよくニュースでもメロドラマでも 何でも良いようだ。
{39} サンルームは天国か
11月に入った。 ある日の夕方 バターンと何か大きな物が倒れるようなかなり大きな音が、母の部屋から聞こえた。
吃驚して飛んで行ってみると 床の間の前に母が、仰向けに倒れていた。 骨粗ソウショウとか骨折が心配だったが 何ともなかったのでホッとした。
どうやら床柱に掴まって立てっていたが 力尽きて後ろに倒れたものらしい。 なにも立った侭でなく 疲れたら 前屈みに膝を曲げて坐ればよいものをーーそんなことを思ったが 言葉に出しても母に通じない気がして何も言わなかった。
このことがあって以来 母は、移動する時 赤ちゃんのように四つん這いで移動するようになった。
お風呂に入れる時は、私が母の部屋から抱きかかえて風呂場へ移動した。
母は、庭にも出なくなった。 お陰で母の部屋は綺麗になった。
庭の泥や土が持ち込まれず 又オモラシ等も無くなったから。
食事は流動食が、多くなった。 妻が、中華料理で使うスプーン状のもので母の口に流し込み 食べさせている。
この頃 私もそうだが きっと妻も母の世話をするのが楽しくてならない感じになっていた。
赤ちゃんを育てるのではなく だんだん赤ちゃんに戻って行く母が いとおしくてならない。
12月の声を聞くと 我孫子もかなり冷え込んで寒くなる。 でも
母の部屋の南側の広縁は、低い位置から太陽の光がガラス戸越しに差し込んで 明るくポカポカと暖かく暖房いらずだ。まるで
サンルームのようである。
ここに少し厚手のマットとシーツを敷き 母が横たわり毛布を1枚
軽くかけて 部屋の障子を閉めておく。
母は、この空間がすごく気に入ったようである。眠ったり 薄目を開けて太陽や庭をみたり 寝返りを打って床の間の掛け軸や飾り物を見たり してこのサンルームにいる。
5時間でも6時間でも 半眼で身動きせず この世とあの世を行ったり来たり 楽しんでいるように見える。
{40} 1ヶ月ぶりに<大>が出た(便秘薬)
12月中旬となると 師走という言葉が馴染んでくる。
街は、気のせいか結構あわただしくなってくる。
10日頃だった 妻が心配そうに私に言った「おバアちゃん もう1ヶ月近くになるのに<大>が出ないのよ」 「やっぱりそうか 俺もそうじゃないかと思っていたが--」 「便秘薬買ってきて使ってみようかしら」 「そうしてくれ ダメだったら少しずつ量を増やしてみてくれ」
3日経ったが 変化は無かった。 妻が薬の量を増やした。
母も私も快通快便の方で 2日便秘すると 何かイライラして気分がすぐれない。
母が我孫子に来て2年目頃から やや便秘気味であった。しかし1ヶ月近くというのは初めてであった。 便秘の為の不快感は、顔の表情からはそんなに感じとれなかった。
母は、相変わらずサンルームでのうたた寝や座敷での睡眠が目立つーーそういえば 近頃寝てばかりだ。
6日経った。やっぱり効果が無かった。妻が、更に薬の量を増やした。
母を入浴させた時 お腹のあたりを見るとまるで餓鬼草紙の絵に出てくる餓鬼のようだ。骨だらけのくせにお腹だけが丸く膨れている。一寸触ってみると 硬いものが詰まっているみたいだ。
近日中にお医者さんに連れて行こうと思った。
その翌日 12月17日 オシッコをさせなければと母の部屋へ行った。 母は布団の中に入っていたが眼は開けていた。そして しきりに腰やお尻を左右に動かしている。
「バアちゃん どうした ウンチ出たのか?」 布団をまくったら プーンと便の臭いが来た。 いつも当てているミニパットではダメだと思い パンツをはずした。
匂いが来たがそんなに強いものではなかった。
布団の上にはゴムシートが敷かれており 敷き布団の方まで染み透ることはないと思われたが ミニパットは、半練りの汚物で一杯だ。 まだまだ吐き出され続けていた。
「オーイ お母さん バアちゃんの<ウンチ>が出たぞー ティシュと濡れ雑巾 それと大きめ紙オムツを持ってきてくれー」と大きい声で妻を呼んだ。妻が、ティシュボックスと雑巾 水の入ったバケツを持って来た。
「おバアちゃん <大>が出たの よかったネー これまで苦るしかったでしょう 本当に良かったネ」
妻も私も まるで自分のことのように喜びうれしがった。
母は、その後5分以上もかけて<大>を出し切った。 あんなに
膨れていたお腹がペシャンコになった。 妻も私も 後始末をしながら「良かった」 「よかった」と言い合った。
母の顔は、蛍光灯の明かりの下でも真っ赤だった。目尻から涙が流れていた。 やがて苦しみから解放されて実にすっきりした
晴れやかな表情に変わった。 湯上りのいい表情を2倍も3倍も良くしたような顔をして 言葉にならない「オーオー」と小さな声を出していた。
翌日から元気になるだろうと思っていたのに 母は、急に弱りだした。 妻が流動食を 口を開けて流し込むように食べさせるが
ほんの2〜3口で 後は口を開けようとしない。 表情だけは、満ち足りてモナリザのように微笑みを浮かべている。 <大>を出すのにエネルギーの殆どを使い果たしたのだろうか。
4〜5日後 例によってオシッコをさせる為に母をポータブル・トイレに座らせ セーフティ・アームを掴ませバス・タオルをかけて 私は、母の部屋を出た。
15分程して戻ってみると 母は、セーフティ・アームに上体をもたれかけ 顔もうつ伏せであった。
「バアちゃん 大丈夫か?」 反応が無い。抱き起こした。やっと
薄目を開けたが 眼は、白い幕が覆っているように濁っている。
「バアちゃん しっかりしてくれヨー」と身体を2〜3回揺すった。
太陽が出ていたので サンルームにマットを敷いて寝かせた。
4〜5分して寝返りを打っている。 眼を見ると 以前のように黒目がもどっていた。
<あー よかった> ホッと胸を撫で下ろした。
その後 台所に居た妻にこのことを話した。 そして「お袋 すっかり弱ってきた。もうダメかもしれん。正月まで持つかどうかーー」と言った。 妻は、何も返事しなかった。
毎日母に接している妻にしてみれば、このことは私以上にわかっていることなのだろう。 それを言葉にしない妻の背に両手を
合わせて台所を ソッと出た。
母は、その5日後に 77歳の生涯を閉じ還らぬ人となった。
終わりに
{41} 東京 芝/増上寺 合同慰霊祭
平成4年10月28日 東京芝公園/増上寺に於いて 東京慈恵会
医科大学第88回解剖諸霊位の合同慰霊祭が、しめやかに行われた。 今回は、586霊位が対象で 母も名を連ねており 遺族として私が参加した。
秋たけなか 穏かな日和であった。
喪服姿の遺族・正装した大学関係教職員それに学生さん達が、広いお堂の中一杯に詰めておられた。
いつも思うことだが 喪服姿の女性は、和装でも洋装でも 本当に美しく魅力的である。
大勢の僧侶の読経の中 1霊位ずつ名前が読み上げられた。
中程で<水上 ミサヲ>と読み上げられたのを認知した時 ツーンと胸にそして鼻に こみ上げて来るものを感じた。
<バアちゃん 貴女は、本当に生き甲斐のある素晴らしい人生を過ごしましたネ そして最後には医学のお役にたって---。
現在貴女の係累は、子が3人・その配偶者が3人・孫が7人・曾孫が2人です。 他にも関わりのある方々が、沢山沢山います。
少なくとも係累の15人は、貴女のことを忘れず 感謝と敬愛の念を抱きつづけることでしよう。
やがて我々が何時の日か この世から消えたとしても--この慰霊祭は、永遠に続き何時までも 貴女の霊を慰めることでしよう。 バアちゃん 長い間 色々面倒をかけました。 本当に有難うございました。
今頃は 若い時の姿に戻り 再び最愛の夫と一緒になれたことでしよう---> そんなことをスラスラと 心の中で言っていた。
ハンカチが、しっかり湿っていた。
終わり--
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